同盟休校(2) ~狭山同盟休校~

狭山同盟休校は、狭山事件の刑事裁判の判決に対する抗議運動の1つとして行われたものです。
狭山事件とは1963年5月1日に、埼玉県狭山市で女子高生が暴行され、殺害された事件です。石川一雄という人物が犯人として逮捕され、浦和地裁で死刑判決が言い渡されます。そして1969年、部落解放同盟はこの事件は冤罪であり、差別裁判であるとして激しい抗議を行いました。石川一雄が同和地区の青年であったことから、狭山事件はこの時代の部落解放運動の中でも最も重要なものになってゆきます。
狭山事件についてはインターネット上に多数の資料があるため、詳しい説明は割愛します。
狭山同盟休校は鳥取県内では大規模なものが2回行われています。いずれも、部落解放同盟の中央により全国的に呼びかけられ、それが解放同盟鳥取県連においても行われたものです。
1976年5月22日に行われた1回目の同盟休校は全国的には非常に大規模なもので全国紙でも報じられ、教育界を震撼させる出来事でした。同和地区の児童生徒が一斉に学校を休むということは、学校内で誰が同和地区の子供なのか公になってしまうということを意味し、まさに前代未聞のことです。これに対し、各自治体の教育委員会は抵抗するか、あるいは黙認しました。
長野県を例に取ると、県教委はこれを黙認したと当時の新聞は伝えています。しかし、松本市などでは地元からの反発があり、市教委が阻止したため、同盟休校は行われませんでした。しかし、多くの地域では生徒児童が「自分は被差別部落出身であり、同じく被差別部落出身であり部落差別の犠牲となった石川さんを助ける」と宣言し、同盟休校に参加していきました。
この同盟休校は鳥取県内でも大規模に行われました。解放同盟鳥取県連の発表では、同和地区の児童生徒の約3割にあたる1560人が参加したとされています。特徴的なのは県東部の参加率が高いことです。
当時の県連書記長、前田俊政氏の発表によれば、県全体では解放同盟の支部が組織されている地区の45%の児童生徒が参加し、県東部では80%にも及んでいます。特に智頭町では、実に100%の参加率でした。また、学校以外でも倉吉市の職員がストライキを行ったことが伝えられています。
同盟休校に参加した児童は、学校に行く代わりに隣保館や公民館に行き、保護者と共に、狭山事件についての学習会や体験発表を行いました。
県教委がどう対応したかについて、当時の日本海新聞はこう伝えています。

また十三の県立高校で予定通り中間テストが行われ、欠席者には今週追試験が行われることになっている。また県教委は今週、同和主任の会議を県内三ヶ所で開き、同盟休校の事後指導を徹底することにしている。

また、学習会の場に教員が現地指導に来たことが伝えられています。このことから、鳥取県教委は同盟休校を黙認ないしは一部協力していたことが伺えます。
最後に、この同盟休校に参加した児童の心情を伺えるものとして、作文を引用しておきます。

「同盟休校に参加して」6年 女子
今日、同盟休校だったので学校を休みました。
私は、なぜ学校を休んだかという理由を少しは知っていましたが、同盟休校について、前田のおじさんと友の会の会長さんが説明され、前よりよく分かりました。
次に、「夜明けをめざして」という映画を見ました。
私は、この映画を見るのは二度目でしたが、でも一度目と二度目の気持ちは違っていました。はじめてみた時は、よくわからなかったが、二度目は、人の言った気持ち、言われた人の気持ちが分かりました。映画が終わると児童館で勉強をしました。
勉強というのは差別の勉強です。映画の話、石川青年のこと、昔の私達の村のことなどです。
私は、「私達の村と映画に出てきた橋の向こうが、どんな関係があるのですか」とたずねられたとき、私は「差別されやすい部落、部落民だから」と答えました。その時、ごちゃごちゃになって、自分でも何を言っているのかわかりませんでした。私は、この同盟休校に参加して、とてもよい学習になったと思います。私達が、大人になっても忘れることが出来ないと思います。これからもいろいろな差別について勉強して、自分も差別しない人間、人に差別されても負けず、差別した人に正しくわかってもらえるように話し合いたいと思います。
一日も早く差別をなくするために、みんな力を合わせて、差別のない明るい社会をつくるようがんばります。

「前田のおじさん」とは、言うまでもなく前田俊政氏のことです。

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同盟休校(1) ~抗議としての盟休~

同和問題を語る上で避けて通れないのが、同盟休校(盟休)です。同盟休校と言うのは児童生徒が一斉に休むという抗議方法で、ストライキ、あるいはサボタージュのようなものです。
戦前から、同和問題に関する同盟休校はちらほらあったようです。手元に、鳥取市のとある同和地区の老人にインタビューした記事があります(部落解放/解放出版社 1977.12)。例えば、級長選挙にからんで同和地区のある子の方が点数があったのに、次点の地区外の子を級長にしたということでストライキになった、とうものです。他は運動会の勝ち負けのトラブルで起こった同盟休校です。
昭和1ケタの時代、鳥取でも「一心会」のような組織が行政と共に同和対策事業を行っていました。しかし、子供の間で「あれは部落だ」「新平民だ」「エッタだ」と公然と囁かれ、同和地区の子供を仲間はずれにするようなことがありました。また、学校の校舎移転の際に、一時的に子供を神社の子守り堂通わせた際に、部落の子供を神さんの近くにおくなと周囲の村から抗議が来ることがあったということです。
そこで、不平等な扱いをされた際の抗議手段として用いられたのが同盟休校でした。映画「橋のない川」のような風景が鳥取にもあったわけですね。
しかし、戦後になると、徐々に同盟休校は組織的な行政闘争の手段として用いられるようになってきます。その1つが、過去の記事でも触れた江府町の入会権問題にはじまる行政闘争です。この闘争を主導したのが前田俊政でした。
鳥取の部落解放運動で、前田俊政という人物は大変重要な役割を果たします。彼はかつての部落解放同盟鳥取県連書記長で、解放同盟の中央の委員になった人物でもあります。鳥取市出身で、市議会議員でもありました。彼の地元には銅像が建っています。相当の勉強家でもあり、読書家であったという評判が地元では聞かれます。
同盟休校を用いた行政闘争は成功し、鳥取県や、彼の地元の鳥取市でも多額の同和対策予算が組まれ、区画整理・道路拡張・改良住宅の建設、といった同和対策事業により鳥取の同和地区は大いに潤いました。現在、同和地区の産業が建設業に偏っているのはそういった事情があります。
地域での差別待遇もなくなった、環境も改善された、という状況で、同盟休校はやがて政治色を帯びてくるようになります。それが、1970年代に行われた「狭山同盟休校」でした。

指導書に見られる同和教育の偏向と矛盾

人権・同和教育の指導のあり方

前回引用した「人権・同和教育の指導のあり方」についてとりあげます。これは鳥取県教育委員会が出している教師用の指導書で、教育現場への影響は非常に大きなものです。
この指導書の冒頭には「今日も机にあの子がいない」という、同和教育の理念が書かれていますが、内容については、そういった当初の理念の面影はありません。鳥取の同和教育は「解放教育」であり、ある定められた思想を教え込むものです(別の機会に触れますが、企業研修などでは、さらにこのことは顕著になります)。
まず、人権問題として何を題材とするか、ということについて次のものが挙げられています。

  • 同和問題
  • 女性の人権に関する問題
  • 障害者の人権に関する問題
  • 子どもの人権に関する問題
  • 県内在住外国人の人権に関する問題
  • 個人プライバシーの保護
  • 病気にかかっている人の人権に関する問題
  • 学力観の中にある人権に関する問題
  • 労働観の中にある人権に関する問題

特に前半の部分は、「人権教育基本方針」
もそうですが、部落解放人権研究所の「日本における差別と人権」の内容に非常に共通しています。特徴的なのは女性、子供、高齢者を一方的に「被差別者」としているところで、部落解放同盟に偏向した考えです。
鳥取の同和教育では「差別の存在に気づく」ということが重要視されます。つまり、差別が存在することを前提に教育を行います。
そのことは、最後の2項目を除き、漏れなく書かれています。
(同和問題)

一部の地域に対する偏見や差別があることに気づくとともに、その不合理さに対する認識を深める。

(女性の人権に関する問題)

社会や日常のくらしの中に、女性に対する差別や偏見があることに気づくとともに、女性という性に対する自分自身の考え方について振り返る。

(障害者の人権に関する問題)

障害のある人に対する偏見や差別があることに気づくとともに、障害のある人に対する自分自身の考え方について振り返り、自分の生活に活かしていくことができる。

(子どもの人権に関する問題)

人権が侵害されている子どもがいることに気づくとともに、子どもの人権を守るための取り組みについて理解する。

(県内在住外国人の人権に関する問題)

多くの在日韓国・朝鮮籍の人が日本に在住している歴史的背景について理解するとともに、その人たちに対する偏見や差別について考える。

(個人プライバシーの保護)

自分自身のプライバシーが守られていない実態があることに気づくとともに、個人プライバシーを保護することが一人一人の人権に直接関わっていこと(註:ママ)を理解する。

(病気にかかっている人の人権に関する問題)

病気にかかっている人(かかった経験のある人)や共に生活(支援)している人の生き方について理解するとともに、病気にかかっている人に対する差別や偏見について考える。

これはよく誤解されることですが、鳥取で行われている同和教育は差別をなくすためものではありません、差別があると気づかせるためのものです。そもそも、差別のない世の中になれば、この指導書のような教育は成り立ちません。
この指導書の通りに授業する場合、身近に差別が本当になければどうするか?答えは、よそから持ってくるかでっち上げるかのどちらかです。実際に、教師から「差別に気づけ」と責め立てられ、ありもしない差別をでっちあげたり、どうでもいい日常の出来事を差別ということにしてしまう子供がいます(まぁ、自分のことですが)。
もう1つの大きな問題は、徒競走でのバイパスや、順位をつけないといった指導として現場に反映されている、結果平等や向上のための努力の否定です。
「学力観の中にある人権に関する問題」については次の記述があります。

・学力によって人を判断してしまいがちな自分たちや社会の意識について考える。

なぜこれが人権に関する問題なのか疑問です。学校と言う学力によって人を判断する機関が、そのことに嫌疑を抱かせるような教育を行うのは矛盾します。
同様のことは、「障害者の人権に関する指導」にも見られます。以下、引用します。

障害のある人もない人も、お互いの「差異を尊重」することで、一人一人のくらしや生き方が豊かになり、共に地域社会で生きていくことができる。
しかし、今日まで障害者差別が根強く残っているのは、これまで障害のある人の人権を考える観点が、無意識のうちに健常者が基準とされてきたからであり、障害者が健常者に近づくという発想での取り組みが行われ、障害のある人への障壁(バリア)が意識的にも制度的にも、社会的にも存在したからである。
これからは、障害があるなしにもかかわらず、その人をあるがままに認めることが自分自身をあるがままに人から認められることであるという考えに立ち、共に地域でくらし、学びあい、育て合えるような社会を築いていく必要がある。

これは非常におかしなことです。教育現場を含め、実社会では、障害のあるなしに関わらず、人は現状より上を目指して努力することが良いこととされます。
ある同和教育に熱心な教師の方は、健常者を中心とした発想だとして、自閉症の子供を治療することまで否定していましたが、どう思われるでしょうか?
追記2006年2月13日
治療にはむしろ積極的だが、『「お前は劣っているから引き上げてやる」とか「こっちに来い」』という態度を否定されるそうです。なんだかなぁ…

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「自らが置かれている社会的立場の自覚を深める」指導

教師用指導書「人権・同和教育の指導のあり方」(平成14年3月 鳥取県教育委員会)より引用
「自らが置かれている社会的立場の自覚」とは、「現代社会には部落差別をはじめとするさまざまな差別があり、差別により、いろいろな面で自分や自分の周りの人たちの生き方が制約されている。そのため、自分たちの生き方をより豊かなものにしていくため、自分に直接関わる問題として、部落差別をはじめとするさまざまな差別をなくさなければならないという自覚」のことである。
1 指導にあたっての基本的な考え方
指導にあたっては、児童生徒の発達段階に応じて、次のような自覚を深めていくことをねらいとする。
①自分たちの間に起こる人権に関する問題に気づく。
②差別することが自らの人間性をゆがめ、人を悲しませたり傷つけたり自由を奪ったりする卑劣な行為であることを理解する。
③「児童生徒の間におこる人権に関する問題」と自分自身の関わりについて、自分自身の生活や行動を振り返り、差別をなくしていく行動をする。
④自分自身・親・友達の生き方や生活を見つめ直す中で、「社会にあるさまざまな人権に関する問題」に気づき、その問題を将来にわたって自分自身に直接かかわる問題として捉え、差別をなくしていく行動をする。
また、「自分自身に直接関わる問題として認識する」とは、
①以前に比べて、現在は人々の人権が保障されるようになってきた。それは、部落差別をはじめとするさまざまな差別をなくすための人々の運動があり、その運動を多くの人が支持してきたからである。従って、差別問題を解決していくことが、自分自身の人権の拡大に直接関わっている。
②自分自身の中にある人を決め付けたり見下したりする心に気づき、自分自身が豊かな人間関係やくらしを築いていくために、そのような心をなくしていかなければならない。
ことを認識することである。
2 取り組みにあたって
「自らが置かれている社会的立場の自覚を深める」指導では、一人一人の児童生徒が思いを出し合いお互いに共感しながら、学習を深めていくことが大切である。また、児童生徒にとって、全ての人権・同和問題に関する学習の機会が「自ら置かれている社会的立場の自覚を深める」学習になり得るものでなければならない。
指導にあたっては、次のような点に留意することが必要である。
①指導の必要性やねらい及び事前・事後の指導の手立てなどについて、全教職員が十分に協議し、共通理解を図ること。
②発達段階等に応じた指導内容の一貫性・系統性を図るとともに、児童生徒の学習の論理に適合した教材の開発に努めること。
③児童生徒一人一人の意識の変容を的確に把握するための手だてができていること。
④被差別の立場に立つ児童生徒については、個別指導等の手だてを図るとともに、家庭訪問等による保護者との話し合いを十分に行うこと。
⑤保護者等に対する啓発活動を積極的に推進し、指導の狙いについての正しい理解と協力を得ること。
⑥保幼・小・中・高等学校や・盲・聾・養護学校及び保護者や関係機関等との連携を図ること。

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保護者による反天皇制学習会と、順位をつけない運動会が行われる保育所

小学校での教条的な同和教育と、天皇制否定の問題は以前の記事でも取り上げました。今回は保育園にまつわる同様の話題です。
鳥取市内には、いわゆる「同和保育所」があります。これについては、鳥取市同和対策総合計画に関する記事で触れていますのでご参照ください。
以下は、とある同和保育所の保護者会の1998年度の活動計画です(保育園や地域が特定できる部分は伏字にしてあります)。

4月  総会(年間の活動計画・予算計画など)
5月  保育所職員との座談会
  (鳥取市同和地区子育て推進事業)
  「基本的生活習慣の確立」をテーマ
  保育所職員による寸劇
  クラス別座談会
  ○○○運動会(保・小・中保護者主催)
6月  親子遠足(村めぐり)
7月  講演会「親の行き方・子どもの躾」
  (鳥取市同和地区子育て推進事業)
8月  部落問題学習会
9月  体験者発表
  意見交流会
10月 反天皇制の学習会
  保・小・中保護者視察研修
11月 解放文化祭(保・小・中保護者主催/2年に1回)
  料理講習(鳥取市同和地区子育て推進事業)
12月 反天皇制の取り組み(親子で遊ぼう)
1月  保・小・中保護者学習会
2月  卒園児を送る会
3月  総会
新旧役員引継会

以前の記事でも述べたとおり、同和保育所と言っても同和地区専用の保育所というわけではありません。事実この保育所は同和地区外にあり、同和地区からは徒歩で20分程度の距離があります(バス通園が多いようです)。もちろん、ここに通う子供の多くはいわゆる同和関係者ではありません。ただ、一般の保育所と違うのは、同和対策事業で建設され、当時2名の「同和加配保母」が配置されていたことです。
この保護者会は、特に同和地区関係者による保護者会です。その結成のきっかけは、鳥取市同和対策総合計画に書かれているような、同和地区の子供に関する問題を協力して解決するため、とされています。
親子遠足(村めぐり)は「たくましくはばたく力の育成事業」の一環として、自分たちの村をめぐるとういうものです。この事業というのは、鳥取市に限らず、鳥取県下の様々な自治体の同和地区を対象として行われるものです。
体験者発表というのは、おそらく東部で同和教育を受けた方なら知っている「自分が差別された、あるいは差別した体験」を発表する会です。差別を受けたこともしたこともないと思っていた人も、これで差別されたことやしたことに気づかされる、ということです。
問題の反天皇制学習会については、以下のようなものです。
(月刊「部落解放」通号446より引用)

また、十二月二十三日には反天皇制の取り組み「親子で遊ぼう」を行います。これは一九九三年度から実施しているもので、「なぜ天皇だけがみんなの祝福をうけるのか。天皇制がある限り部落差別はなくならない」と、保護者会として親子で一日楽しく過ごし、天皇誕生日に反対する取り組みです。また、一九九五年度からは、この取り組みにむけて事前に保護者会の学習会を実施します。

そして、私が驚いたのは次のことです。こういった教条的な同和教育は鳥取と言えど相当批判されたはずで、もう姿を消したものと思っていました。実際、1980年代はこの保育所でも運動会の徒競走では順位を付けています。
(同じく月刊「部落解放」通号446より引用)

また、いまの保育所の運動会では、一位・二位・三位などの順位をやめていて、順位に関係なく、最後までがんばって走ることに意義があると教えてもらっていますが、ある保護者からは、「このあいだ、小学生の子どもが一〇〇メートル競技で最後だったけれど、『ぼく、最後までがんばって走ったで』と話してくれた。子どもにがんばることの大切さを教えてくれたことに感謝している」という意見もありました。

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鳥取市内の高校講師の「差別発言」に対する人権救済

部落解放同盟鳥取県連が示してきた「被害者が救済されなかった具体的事例」についての続報です。事のあらましは過去の記事を参照してください。
この件については、市教委に不適切な対応があったとして、共産党の市議により議会で追求されています。鳥取市議会の議事録などをもとに、この件の詳細をお伝えします。
3人の生徒からの告発があったのは1999年2月で、当時の市教委の同和教育指導主事によりまとめられ、部落解放同盟(市議会議事録では「運動団体」とされていますが、解放同盟のことです)に報告されました。この際、差別発言をしたとされる講師に確認せず、生徒の告発を鵜呑みにして、講師が差別発言をしたと断定していたことが問題とされています。
その後、講師に対する確認会が行われました。そのとき、市教委や学校長から確認会への参加を強要するような発言があったとされています。以下は、市議会議事録からの引用です。

1回目の確認会は3月12日、沖縄での同窓会に参加を予定していたため、「出席できない」と断ったところ、「欠席したら沖縄なんかに行けないようになりますよ」。
2回目の3月30日では、A氏は「出る必要はない。尋ねたいことがあれば文書で聞いてほしい」。と言いましたら、「そんなことをしていたら、この問題は糾弾会に行くかもしれない」、家族の職業を挙げまして、「家族にまで害が及びますよ」。

解放同盟側の資料では講師が「自らの人権が侵害されたとしてその後の聞き取りや話し合いを拒否した。 」とされていますが、共産党鳥取市議員団が市長と市教育長に対して、講師に対する同和問題にかかわる人権侵害を止めるように申し入れた、というのが正確なところです。
最初のうち、講師は不適切な発言があったとして、生徒との話し合いを希望していましたが、市教委はそれを拒否しました。その後、講師は発言は事実無根であると主張しました。
しかし、差別発言について告発する内容をまとめたメモを指導主事が紛失してしまい、真相はうやむやになっています。解放同盟側の資料にもある通り、差別発言が本当にあったのかどうか、最後まで誰も確認できませんでした。市教委も取材に対して「その件については現在はノータッチである」と答えています。
教育関係者の証言によれば、この指導主事は市教委の中でも「解放同盟寄り」と見なされていました。現在、教頭として現場に復帰しています。本来の出世コースであれば、校長となるところですが、この一件が影響したのかどうかはさだかではありません。
なお、当事者の講師(50代)は既に病死しています。

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倉吉市同和問題企業連絡会

最近、鳥取市のネタばかりなので、たまには他の地域のネタも採り上げます。
以前、鳥取市の同和問題企業連絡会(同企連)について採り上げました。実は、同企連は鳥取の主要都市に存在します。すなわち、米子には米子の同企連があり、倉吉には倉吉の同企連があります。
しかし、元祖は鳥取市の同企連です。1990年、部落地名総鑑事件などで解放同盟の糾弾を受けていた4社(当時は四社懇と言われていました)のうち、鳥取県東部の3社が鳥取市同企連を結成しました。それは鳥取でも有名な花形企業、鳥取三洋、日ノ丸自動車、中国電力鳥取支社です。そして、残りの一社オムロン倉吉をはじめとする企業で1994年に結成されたのが倉吉同企連です。
件の4社の倉吉営業所はもちろん、倉吉同企連には鳥取の有名企業が名を連ねています。JR西本倉吉駅、株式会社いない、神鋼機器工業、倉吉グンゼ、鳥取オンキョー、鳥取銀行倉吉支店、山陰合同銀行倉吉支店などです。
倉吉同企連の電話番号を調べると倉吉市役所産業部企業立地推進室の電話番号になっており、鳥取市同様、市役所内に窓口があることが分かります。
同企連の会員企業には同和問題研修推進委員がおり、講師による講演、座談会、啓発ビデオ鑑賞といった研修が社員に対して行われます。全社員参加しての研修、というのが理想なようですが、実態としては半数以下に留まるようです。ともかく、同企連会員企業は人権教育に熱心な企業ということになります。
最後に、倉吉同企連の10周年記念誌に掲載されている、部落解放同盟倉吉市協議会委員長の中野俊夫氏の祝辞から引用しておきます。

「現在『人権教育及び人権啓発の推進に関する法律』が制定され、『人権侵害救済法』制定の運動が全国的に高まっている今、倉吉同企連の役割と存在は重きをなすものと思います。今後ともその取り組みを続けていただきたいと思います。」

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鳥取市同和対策総合計画(3)

鳥取市同和対策総合計画では、同和地区の子供の学習状況についいて、次のように書かれている。

平成12年( 2000 年)に実施した「学力・生活実態調査(小学校4年生・中学校3年生)によると、地区児童・生徒の学力( 国語・算数・数学)は、地区外と比べて、小学校4年生の正答率の平均においては差が見られませんが、5段階評定で見ると、二極分化の傾向が見られます。一方、中学校3年生の偏差値の平均においては差が見られ、5段階評定でも、学力の低い層が地区外生徒に比べて多く見られます。このように、学力の問題は依然と解決していません。また、生活面においても、家庭学習や読書の習慣が確立していない、テレビ視聴の時間が多いなどの児童・生徒が地区外より多くあり、部落差別の結果として生じてきた生活実態の改善や向上を図ります。

これは少し不可解なことである。鳥取市では同和地区を有する学校には同和加配教員が配置され、教育面では優遇されている。私が実際に見てきた例では、同和地区の子供は週一回、放課後の学習会に通っていた。実際に、次のような記述がされている。

また、学力向上推進事業として、夏期学習会と補助教員の配置・保護者学習講座等を開設してきましたが、今後とも地区進出学習等では、個別指導を徹底するとともに、児童・生徒が主体的に学習に取り組んでいけるよう自主性を育てること、自ら差別を解消しようとする学力や態度を育てること、将来への確かな目標を持ち、それを実現しようとする意欲を育てることを重点とした指導を行います。

こういった施策は何十年も前から行われているはずで、今さら「部落差別の結果として生じてきた」といった判断をするのは妙である。学習能力に格差があることに原因があるとするなら、「自ら差別を解消しようとする学力や態度を育てること」というのがイデオロギー的なもので、基礎的な学習能力につながってこなかったか、あるいはそもそも学力に問題があるという認識自体が間違っているかのどちらかである。
あまりに変な記述だったので前回は無視したが、「同和地区における差別実態の課題」として次のように書かれている。

保育所児童については、「保育所児童実態調査」の結果で、片付けや当番活動を最後までやりとげようとする姿や、自分の気持ちを表現しようとする姿などがうかがえますが、我慢することや絵本を楽しみ、話の内容を遊びにとりいれたり、イメ-ジ豊かに表現したりすることなどに課題がみられます。
また、前回平成7年(1995年)の調査では、地区外児童にくらべて数値の高かった異年齢児とかかわる姿も減少してきていると思われます。このことは、おとなのかかわりや語りかけのあり方、おとな同士の人間関係の希薄化などに要因があると考えられます。

幼児の行動まで「差別実態」に結びつけるのがそもそも間違いな気がするが、鳥取では実際に「同和保育」や「解放保育」といったことが行われている。
鳥取にはいわゆる「同和保育所」というものが存在する。行政的にそのような区分があるわけではないが、同和地区の子供のために建設された保育所のことを一般に同和保育所と呼ぶようである。とは言え、実際のところ現在では同和地区関係者以外の子供が80%以上を占めている。
かつて、このような保育所では、ひな祭りや節分といった行事をしない、運動会で順位をつけないといった偏向した保育が行われ問題となったが、現在ではそのような実態はないようである。一般の保育所との違いと言えば、保護者会で同和問題が話題に上るくらいである。
もちろん、一般の保育所でも職員が同和保育の研修に参加する、といったことは度々ある。時には、同和保育に非常に熱心な保母さんもいらっしゃるようである。

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1960~1980年代の風景

※鳥取県内のとある同和地区近隣住民のお話をもとに構成しています。
1960年代、今学校で行われている同和教育のようなものは存在しなかった。ましてや、誰が部落出身だと明らかにするようなことはない。ただ、社会科の授業で身分制度について習うことはああった。私は「江戸時代には士農工商えた非人といった身分制度があったが、明治になってから解放令により四民平等になった」と教えられていたので、被差別部落はもう存在しないと思っていた。
当時、子供たちの間では鳩を飼うのが流行していた。被差別部落の子供とも、お互いに鳩を見せ合ったり、普通に遊んでいた。祖母も、隣村の住人とは仲がよかった。もちろん、当時はどこが被差別部落なのかと言ったことは知らなかった。
それから私はしばらく県外に出ていて、1975年ごろ、鳥取に帰ってみると、様子が変わっていた。PTAの集まりなどで、隣の村が被差別部落で、同和教育が行われていることを初めて知った。今になって思えば、以前に隣の村の子供たちの態度がよそよそしくなったので、その頃から部落内の子供は教わっていたのだと思う。
学校で差別事象があったということで、糾弾が行われたことがある。そのころ私はPTAの同和教育推進の役員をやっていた。座談会で差別があるといったことを言われたが、では具体的に何があったのか聞いてみても、はっきりと答えてもらうことはできなかった。
確かに隣の村は貧しい人が多かった。あばら家のようなところが多いのでそれは見れば分かった。しかし、同和対策事業が始まってからはみるみるうちに変わっていった。隣村には幅6mの道路が出来、建設業者が増えて公共事業で大いに潤った。
今、同和対策事業をやめろと言ってもそれは無理だと思う。特に鳥取のような田舎ではこれといった産業もないのだから。
結婚や就職差別は本当にあるのかも知れない。ただ、本当に部落差別なのか、人間の内面の問題であるから他人には知る由もない。
人間は昔から差別してきたし、これからも差別はあると思う。被差別部落内にだって差別はある。実際に就職などで、親族をえこひいきする者がいる。

被害者が救済されなかった具体的事例

「鳥取県人権侵害救済条例の制定について」
部落解放同盟鳥取県連合会
06年2月「部落解放」561号
一九九九年、卒業式を目前にひかえた鳥取県立A高校に通う鳥取市内の被差別部落の三人の生徒から、一九九八年ごろより、この高校のB講師より差別的な言動を受けたとの告発があった(三人の生徒は、やっとB講師から離れられるという思いから卒業式の直前での告発となった)。
この告発を受けて市教委が生徒から聞き取りを行った結果、三人の生徒から、それぞれB講師によるA高校での英語の授業の際の発言内容、B講師の自宅塾での発言内容など、生徒に対する差別的言動の内容が告発された。
その事実を確認するために、県教委、市教委がA高校に出向き、B講師から聞き取りを行うとともに、その後、報告を受けた部落解放同盟も加わり事実確認を行おうとした(この聞き取りは、あくまで三人の生徒の告発内容をもとにすすめられてきた。しかも、B講師から事実関係を語ってもらうため、B講師にも配慮しながら話し合いの場をもつなど、時間をかけた聞き取りが行われた)。
しかしながら、B講師は、教育者でありながら、三人の生徒が傷ついていること自体を真筆に受け止めようとせず、それどころか、聞き取りによって、自らの人権が侵害されたとしてその後の聞き取りや話し合いを拒否した。
一方、生徒たちはその後卒業し、それぞれの進路を歩んではいるが、大切な「思い出」としてあるはずの高校三年生の時に、しかも卒業式直前までB講師によって心を傷つけられたことがいまでも心に重く残っている。
その中の一人の生徒は、卒業後、街でB講師と顔を合わせた際、B講師ににらみつけられたため、当時のことがふたたび思い出され、衝撃を受けた。
その後、事実確認も進展せず、卒業した三人の生徒もその保護者も、心に深い傷をもったままとなり、この問題は解決されなかった。
さらに、生徒の告発内容だけでは事実確認ができないままとなり、結局、事実関係については、B講師への配慮もあり、公表されることはなかった。
 
「人権救済条例」が、まさにこの事例のような被害者を枚済するために必要であり、迅速かつ適切な救済が求められる。

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