差別事件を考えるシンポジウム

差別事件を考えるシンポジウム冊子

去る2月5日、鳥取県民文化会館・梨花ホールにおいて、部落解放同盟鳥取県連が主催した「差別事件を考えるシンポジウム」が開催されました。この集会には藤井喜臣副知事が来賓として挨拶しています。人権救済条例について知事が凍結の方針を示すなど、微妙な時期での開催でしたが、特にこれといった混乱はありませんでした。

一民間団体の集会として行われたことですが、実態として鳥取県下の自治体によるバックアップがありました。解放同盟鳥取県連から自治体職員に対する参加要請があり、同和対策関連の部署から各職員に通知されています。また、当日現地では、大山町、伯耆町、湯梨浜町、江府町、南部町、琴浦町、倉吉市の車両が見られました。

当日の委員長挨拶、副知事挨拶、講演、パネルディスカッションを録音したファイルが、インターネット上で公開されています。
さて、この集会で配布されたパンフレットには、「鳥取県内であいつぐ差別事件一覧」として、2004年以降の「差別事件」が10件書かれています。以下、その一部を引用します。

(1) 旧関金町立関金小学校児童差別発言事件

発生年月日 2004年12月10日
発生場所 関金町立関金小学校
事件の内容 給食の準備中、6年生男子生徒A、Bがふざけている時にAが「お前の好きな人○○だら」と何度もしくこく言ったので、Bが「差別だ」と言うと、Aが「部落の人」とBに対して言った。Bは「先生に言ったるけんな」と言って担任のところに行った。Aは「ごめん、ごめん。ふざけていっただけ」と謝ったがBには聞こえなかった。(○○は個人名)

(2) JR大山町トイレ差別落書き事件

発生年月日 2005年2月28日
発生場所 JR大山口駅男子大便用トイレ
事件の内容 JR大山口駅男子大便用トイレ内壁面に10cm×23cm角で「○○町は部落だ皆で差別しよう エタ ヒニンだ!!」と黒のボールペンで書かれていた。(○○は米子市内の町名)

(3) JR米子駅男子用トイレ差別落書き事件

発生年月日 2005年5月3日
発生場所 JR米子駅男子大便用トイレ
事件の内容 JR米子駅男子大便用トイレ内の付け棚上面に黒いマジックで「0852-△△-△△△△ 柴 チョーセン殺せ」と書かれていた。(△△は電話番号)

他の7件の概要は次のようなものです。

(4) 2005年5月26日に鳥取県東京事務所に職員に同和地区出身者がいるかどうか問い合わせる電話があった。
(5) 2005年5月から6月にかけて、県立鳥取商業高校の校舎内に、「えた」「死ネ部落民学校祭ニ出テクンナ」などという落書きがあった。
(6) 2005年7月21日に倉吉の同和問題講演会のチラシに「人お差別する町(倉吉)」と落書きがあった。
(7) 2005年8月27日に倉吉体育文化会館に「同和の人間は汚い」などと書かれた投書がされた。
(8) 2005年9月13日にJR鳥取駅やJR智頭駅のトイレに「外人使うな」などと書かれた落書きがあった。
(9) 2005年11月15日に解放同盟鳥取県連に鳥取市河原町のある地域について、同和地区であるかどうか問い合わせる電話があった。
(10) 2005年11月から12月にかけて、鳥取市の鉄道記念公園に「四 エタ」などの落書きが書かれた。

全てについて、「差別身元調べ事件」「投書事件」などと「事件」と題目がついていましたが、事件と言うに値するようなものは1つもありません。

(1)については、自分も小学生の頃覚えがありますね。6年生と言えば、学校によっては「立場宣言」が行われ、誰が同和地区の子か分かります。同和教育で差別という言葉を叩き込まれるので、この事例に出てきたBのように、何かにつけて「差別だ」と言う人がちらほら出てきます。

(6)は「差別落書き事件」と書かれていますが、何が差別落書きなのか意味が分かりません。

(9)については、宅地の競売物件にからむ問い合わせだったとのことです。鳥取市の場合「被差別物件」というものが行政によって指定されていますが、この問い合わせの件に関しては「同和地区に住んでいる人や友達が、地区に住んでいることでいやな思いをしたことがあった」というのが理由のようです。これに関しては、非常に複雑で根深い問題がありますので、おいおい触れてゆくことにします。

智頭町広報の連載記事

「広報ちづ 平成18年3月号」
差別のない社会へ 282

~『差別事件を考えるシンポジウム』が開催される~

去る2月5日石)、鳥取県民文化会館の梨花ホールを会場に、部落解放同盟鳥取県連合会の主催による『差別事件を考えるシンポジウム』が1500人の参加者により開催されました。
このシンポジウムは、平成14年3月末をもって失効した「特別措置法」から今日まで、県内で80件を越える部落問題にかかわる差別事件が惹起しており、配慮して公にされていない結婚差別問題などの課題を含めればまさに氷山の一角であり、これらの差別事件の背景や課題を明らかにして、差別の原因に迫る取り組みや差別に苦しむ人々を救済する社会のシステムを確立しようと開催された集会です。
主催者を代表して、中田幸雄県連執行委員長のあいさつの後、(社)部落解放・人権研究所の友永健三所長による『差別や人権侵害に苦しむ人々を救済する社会システムを目指して』~鳥取県人権侵害救済推進及び手続きに関する条例制定の意義と課題~と題した講演では、昨年10月に全国で初めて制定された「鳥取県人権侵害救済条例」の歴史的な意義と共に、この条例の制定を求めて粘り強い運動を展開してきた関係者の努力に対し、まず敬意を表されました。その後、条例制定に至る主な経過や条例の内容、制定の意義などについて詳しく説明され、条例制定以降県弁護士会やマスメディアから寄せられている枇判に対して理論的な反批判をされました。
最後に、今後の課題として、県内における部落差別や人権侵害の実態を明らかにしていくことや条例の持つ積極的な意義を各方面に広めていくこと、人権侵害救済条例をよりよいものにしていくことの重要さを指摘されました。
『連続大量差別ハガキ(封書)事件の真相に迫る』のテーマで進められたシンポジウムでは、友永所長をコーデネーターに、部落解放同盟東京都連合会執行委員や鳥取県連合会執行委員など3名のパネラーが被害を受けた当事者として、ハガキや封書により送りつづけられた脅迫はがきの内容や被害者の名を騙った高価物品の送り付け実態、24時間に500件を上回る膨大なネットヘの差別書き込みなど550日も続き、家族もろともの「生き地獄」の毎日だったと語られました。
犯人は逮捕されましたが、東京地裁での裁判で、被告本人は事件をおこした動機について「大学卒業までエけ-ト街道を歩いてきたが、大学卒業後は自分が希望する職に就職できず、強いストレスを抱えた生活が続き、自身の抱えるストレス解消のために、図書館で読んだ本の著者であった見も知らずの被害者に向けて徹底的に部落差別をし続けた」と証言したそうです。
最後に、友永所長が「鳥取県人権侵害救済条例」は、基本的に評価されるものでありこの取り組みの全国化、国のレベルでの「人権救済法」の早期制定に向けて取り組もうと結ばれました。

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「在日韓国・朝鮮籍の人が日本に在住している歴史的背景」の指導

同和教育実践事例集(昭和55年8月)に載っていた倉吉市の中学生の作文です。これは倉吉市内の中学校の同和教育で使われました。

差別と区別

人間は誰でも裸で生まれる。15年前、名古屋で生まれたぼくもそうである。ところが、幼稚園に通うようになってから、不思議な経験をした。そこでやりとりされることばと、街で使われていることばが違っていたのだ。それがなぜ違うのかわからなかった。ぼくが通ったのは朝鮮人の幼稚園だった。小学校に入ったのは倉吉に移ってからだ。クラスメートはKというばくの姓を聞いてばかにした。ぼくはこの時初めて、自分が朝鮮人であることを知り、心の中を冷たい風が吹きぬけるのを感じた。
「どうしてばくだけが。」「この教室の中でなぜぼく一人が。」と悩んだことを覚えている。中学校に入ってからは、生徒会などでリーダーとして活動していることもあってか、からかわれることもなかった。かえって、友達から日本名で呼ばれると、違和感を感じたりした。しかし、それを違和感として感じるまでには朝鮮人であるばくがなぜ日本にいるのかを知らなくてはならなかった。
今、日本には60万人以上の朝鮮人がいる。これらの大部分は、満州事変後、日本の労働力不足を補うため、強制的に連れてこられた人々やその子孫である。ばくの家族もそうである。祖母と父と母、二人の妹とぼくをいれて6人家族。祖母は一世、父と母が二世、ばくと妹は三世だ。祖父母たち一世が若かった頃は炭鉱や工場で重労働を強いられ、臭い便所の中をかいくぐって脱走するものさえあったそうである。
二世である父の戦前・戦後も朝鮮人への差別は厳しかった。貧しい中からやりくりして学校へ通わせてくれた父母の家計を助けるため、高校卒業後、日本の会社に就職願書を出したが、送り返された。朝鮮人だというのが、その拒絶の理由だった。父はそういう民族差別の壁に泣かされたそうである。そして父は今、母とともに廃品回収業を営んでいる。
日本人にとって朝鮮人は外国人である。だから、区別することは一向にかまわない。しかし、なぜ差別されなければならないのだろうか。朝鮮人が日本で暮らすことになった根本の責任は日本人にある。このことを考えるならば、差別は許されるべきものではない。けれども、現実には朝鮮人は差別の中に置かれているのだ。
日本は経済面で高度成長を遂げ、大国として世界の注目と期待を集めている。経済大国を作りあげた日本人の英知と努力は、これらの差別をなくすことにもふり向けられてよいのではないか。黒人問題など海外の差別には敏感に反応する日本人が、国内の差別問題に鈍感なのは不思議でならない。朝鮮人であるぼくにとって望ましいのは、外国人として区別されることだ。区別は、共通点よりも相違点を重くみるところから出発する。自分と違うものを持った人を、差別するのでなく尊重し認め合うのが今の世界の流れなのだ。
最近、ぼくを力づけ、希望を与えてくれる二つの出来事があった。一つは、在日朝鮮人の金敬得氏が、司法試験に合格し、ぼくたちに弁護士への道を広げてくれたこと。もう一つは、外国人でも国公立大学の教授に採用しようという法案が、国会に提出されていることだ。これらの出来事は、外国人への差別が徐々にとり除かれ、その権利が尊重されつつあることを意味している。つまり、区別されるようになったのだ。
日本に生まれ、日本で育った三世であるぼくに、日本文化が与えた影響は大きい。また、差別の日々も知っている。しかし、そのような中で、朝鮮人の誇りを持って生きるためにも、日本人から正しく区別されたいと思うのである。

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企業、新卒者に徹底される「公正採用選考」

鳥取県内の高校では、就職を希望する生徒には、「公正採用選考」についての指導が行われます。それは、差別につながる質問をされても答えてはいけないというもので、時には学校に報告するように指導されます。
私は高校の頃、進学組だったのですが、就職する生徒が多い高校だったので、特別に時間を設けてクラス全体でこの指導が行われました。差別につながる質問として代表的なのが、父親の職業を聞いてはいけない、ということです。なので、例えば企業の面接担当者が「お父さん」ではなく「父は」と答えられるか確かめるために父親の職業を聞いたところ、「そういう質問には答えられません」と言われて面食らうことが度々あるようです。
同和問題に関して言えば、県内で就職差別の事例は、ここ10年ほどの間、1件もありません。過去の差別の事例として有名なのは「部落地名総鑑」です。鳥取県内でも某大手家電メーカーや電力会社が買っていたことが明らかになっています。県内の主要都市にある同企連はこの事件がきっかけで設立されました。
この頃、半ば強制的に進められたのが、企業の採用選考で全国高等学校校長会による統一応募用紙を使うことでした。それをしないで、例えば家族構成を聞くといったことをすれば、差別体質を持った企業として糾弾されました。実際に1990年代、鳥取県や島根県で統一応募用紙を使わなかった企業に対して相次いで糾弾会が行われています。
こうして、差別のあるなしに関わらず、「差別につながる」と思われるような選考は企業はできなくなりました。これは鳥取だけでなく、大阪などでも有名な話ですね。
手元に、鳥取県商工労働部発行(平成10年7月)の「企業における同和問題・人権問題の取り組み方」という企業向けの研修資料があります。この中から、採用選考でしてはいけない質問について抜き出してみます。

  • あなたの本籍地はどこですか。
  • あなたのお父さん(お母さん)の出身地はどこですか。
  • どうして本籍と現住所が違うのですか。
  • 生まれてから、ずっと現住所に住んでいるのですか。
  • あなたのお父さんは、どこの会社に勤めていますか。また、役職はなんですか。
  • あなたの家の家業は何ですか。
  • あなたの家族の職業を言ってください。
  • あなたの家族の収入はどれ位ですか。
  • あなたのうちは、田畑はどれ位ありますか。
  • あなたのうちの不動産はどれ位ありますか。
  • あなたのうちは、山林がありますか。
  • あなたのうちの耕地面積はどれ位ですか。
  • あなたの住んでいる家や土地は、自分のものですか。
  • (住所について)××町の△△はどのへんですか。
  • あなたの住んでいる地域は、どんな環境ですか。
  • あなたの住所の略図を書いてください。
  • あなたの家庭の雰囲気は。
  • あなたは転校の経験はありますか。
  • お父さん(お母さん)がいないようですが、どうしたのですか。
  • お父さん(お母さん)は病死ですか、死因は何ですか。病名は。
  • お父さん、お母さんの学歴は。
  • あなたの信条は何ですか。
  • あなたの生活信条は。
  • あなたの信条としている言葉は。
  • 家の宗教は何ですか。何宗ですか。
  • あなたの家庭は、何党を支持していますか。
  • 尊敬する人物を言って下さい。
  • あなたの人生観は。
  • あなたは、自分の生き方についてどう考えていますか。
  • あなたは、どんな本を愛読していますか。
  • あなたの家は、何新聞を読んでいますか。

最後の方は何か凄いですが、実際に高校ではこういった質問は違反だと指導されます。私の高校の頃の経験では「愛読書や好きな言葉を聞いてはいけない」と教師が言ったら、さすがに野次が飛びました。
果たして、県内企業の採用選考において「差別につながる質問」がゼロになる日は来るのでしょうか。

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同盟休校(3) ~教育に与えた影響~

2度目の大規模な同盟休校は1980(昭和55)年1月28日に行われました。この同盟休校も全国的に行われたものですが、全国紙ではほとんど扱われていません。地元鳥取県の日本海新聞では、社会面で比較的大きく報じられています。
しかし、この同盟休校は前回よりもさらに大規模なもので、部落解放同盟鳥取県連の発表によれば、参加者は2512人、実に同和地区児童生徒の56%が参加するというものでした。前回同様東部での参加率が高く、東部80%、中部69%、西部22%となっています。
なお、この同盟休校に参加したのは児童生徒だけではありません。件の保育所では「同盟休園」が行われています。
ともかく、現在の人権・同和教育に「社会的立場の自覚」が盛り込まれており、その運用に鳥取県の東部と西部で大きな違いが見られるのは、この同盟休校が大きな要因となっていることは間違いありません。
教育に与えた影響は、指導書からも読み取ることが出来ます。私の手元に、同盟休校以前の昭和46年10月に発行された、鳥取県教育委員会の同和教育資料があります。これは74ページに渡る非常に詳細な指導書ですが、「社会的立場の自覚」については全く触れられていません。また、児童生徒に差別があると気づかせる指導もありません。
同盟休校以前の同和教育は国の同和対策事業に基づいたものですが、その根底にあるのは「正義と心理を重んずること、公平な態度、科学的な考え方」といったことで、従来から理想とされた社会人像を実現するものでした。しかし、同盟休校後の同和教育は全く特殊なものに変わりました。
同盟休校後の昭和55年3月発行の同和教育実践事例集には「社会的立場の自覚」という言葉が出てきます。以下は、「校内同和奨学生研修会実施事例 – 社会的立場の自覚を求めて -」と題された解説からの引用です。

(昭和)50年、51年と教師自身の研修も進み、地域進出(隣保館訪問、地区出身生徒全家庭訪問、地区懇談会参加)の定着化によって同和地区の保護者との連携も深まり、学校の同和教育が進むにつれて教師も地区出身生徒も本当の意味で胸を張って同和奨学生であることを、同和地区生徒であることが言えるようになった。そして53年度には全校集会、あるいはホームルームで同和奨学生に対する連絡、指導が何のわだかまりもなく行われるようになり、54年度には同和地区出身生徒が全員同和奨学生となった。

この下りからも、当時「立場宣言」が行われていたことが分かります。
この同和奨学金制度は昭和40年から既に始まっていました。奨学金と言っても「支給」であるため、返還の必要はありません。当時を知る方の話では、友達から「自分は奨学金をもらっていて、それは返さなくていいものだ」といったことを聞いて、「そんなうまい話があるか、そりゃ泥棒よりひどいな」と罵ったそうです。もちろんその方は、当時は彼が同和地区出身者であることも同和奨学金という制度があったことも知りませんでした。
「全員同和奨学生となった」という部分も興味深いです。同和奨学金の給付条件には、同和地区出身だけでなく「経済的理由により就学が困難であると認められること」「学業成績良好で性行正しく身体が強健であること」という条件があったのですが、実際は空文化していたようです。
そして、指導の中には狭山事件の署名活動といった、解放同盟の政治運動が堂々と出てきます。私が中学生だった1994年前後も、このような指導は続いていました。
昭和46年の同和教育資料には次の記述があります。

教育の政治的中立性の確保に努め、同和教育の推進をはからねばならない。
これは、教育基本第8条第2項の規定によるもので、同和教育と政治的な運動とを明確に区別し、政治運動そのものが直ちに教育であるといった考え方に偏ることのないように留意して、児童生徒の見方や考え方を、ある特定の政治的立場や方向に固定させることのないよう、公教育機関としての学校の立場を堅持して教育にあたる。

この記述が、色あせて見えます。もちろん、現在の同和教育の指導書にこのような記述はありません。
教育基本法の精神に反する同和教育が今現在でも行われているのが鳥取の実情です。

同盟休校(2) ~狭山同盟休校~

狭山同盟休校は、狭山事件の刑事裁判の判決に対する抗議運動の1つとして行われたものです。
狭山事件とは1963年5月1日に、埼玉県狭山市で女子高生が暴行され、殺害された事件です。石川一雄という人物が犯人として逮捕され、浦和地裁で死刑判決が言い渡されます。そして1969年、部落解放同盟はこの事件は冤罪であり、差別裁判であるとして激しい抗議を行いました。石川一雄が同和地区の青年であったことから、狭山事件はこの時代の部落解放運動の中でも最も重要なものになってゆきます。
狭山事件についてはインターネット上に多数の資料があるため、詳しい説明は割愛します。
狭山同盟休校は鳥取県内では大規模なものが2回行われています。いずれも、部落解放同盟の中央により全国的に呼びかけられ、それが解放同盟鳥取県連においても行われたものです。
1976年5月22日に行われた1回目の同盟休校は全国的には非常に大規模なもので全国紙でも報じられ、教育界を震撼させる出来事でした。同和地区の児童生徒が一斉に学校を休むということは、学校内で誰が同和地区の子供なのか公になってしまうということを意味し、まさに前代未聞のことです。これに対し、各自治体の教育委員会は抵抗するか、あるいは黙認しました。
長野県を例に取ると、県教委はこれを黙認したと当時の新聞は伝えています。しかし、松本市などでは地元からの反発があり、市教委が阻止したため、同盟休校は行われませんでした。しかし、多くの地域では生徒児童が「自分は被差別部落出身であり、同じく被差別部落出身であり部落差別の犠牲となった石川さんを助ける」と宣言し、同盟休校に参加していきました。
この同盟休校は鳥取県内でも大規模に行われました。解放同盟鳥取県連の発表では、同和地区の児童生徒の約3割にあたる1560人が参加したとされています。特徴的なのは県東部の参加率が高いことです。
当時の県連書記長、前田俊政氏の発表によれば、県全体では解放同盟の支部が組織されている地区の45%の児童生徒が参加し、県東部では80%にも及んでいます。特に智頭町では、実に100%の参加率でした。また、学校以外でも倉吉市の職員がストライキを行ったことが伝えられています。
同盟休校に参加した児童は、学校に行く代わりに隣保館や公民館に行き、保護者と共に、狭山事件についての学習会や体験発表を行いました。
県教委がどう対応したかについて、当時の日本海新聞はこう伝えています。

また十三の県立高校で予定通り中間テストが行われ、欠席者には今週追試験が行われることになっている。また県教委は今週、同和主任の会議を県内三ヶ所で開き、同盟休校の事後指導を徹底することにしている。

また、学習会の場に教員が現地指導に来たことが伝えられています。このことから、鳥取県教委は同盟休校を黙認ないしは一部協力していたことが伺えます。
最後に、この同盟休校に参加した児童の心情を伺えるものとして、作文を引用しておきます。

「同盟休校に参加して」6年 女子
今日、同盟休校だったので学校を休みました。
私は、なぜ学校を休んだかという理由を少しは知っていましたが、同盟休校について、前田のおじさんと友の会の会長さんが説明され、前よりよく分かりました。
次に、「夜明けをめざして」という映画を見ました。
私は、この映画を見るのは二度目でしたが、でも一度目と二度目の気持ちは違っていました。はじめてみた時は、よくわからなかったが、二度目は、人の言った気持ち、言われた人の気持ちが分かりました。映画が終わると児童館で勉強をしました。
勉強というのは差別の勉強です。映画の話、石川青年のこと、昔の私達の村のことなどです。
私は、「私達の村と映画に出てきた橋の向こうが、どんな関係があるのですか」とたずねられたとき、私は「差別されやすい部落、部落民だから」と答えました。その時、ごちゃごちゃになって、自分でも何を言っているのかわかりませんでした。私は、この同盟休校に参加して、とてもよい学習になったと思います。私達が、大人になっても忘れることが出来ないと思います。これからもいろいろな差別について勉強して、自分も差別しない人間、人に差別されても負けず、差別した人に正しくわかってもらえるように話し合いたいと思います。
一日も早く差別をなくするために、みんな力を合わせて、差別のない明るい社会をつくるようがんばります。

「前田のおじさん」とは、言うまでもなく前田俊政氏のことです。

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同盟休校(1) ~抗議としての盟休~

同和問題を語る上で避けて通れないのが、同盟休校(盟休)です。同盟休校と言うのは児童生徒が一斉に休むという抗議方法で、ストライキ、あるいはサボタージュのようなものです。
戦前から、同和問題に関する同盟休校はちらほらあったようです。手元に、鳥取市のとある同和地区の老人にインタビューした記事があります(部落解放/解放出版社 1977.12)。例えば、級長選挙にからんで同和地区のある子の方が点数があったのに、次点の地区外の子を級長にしたということでストライキになった、とうものです。他は運動会の勝ち負けのトラブルで起こった同盟休校です。
昭和1ケタの時代、鳥取でも「一心会」のような組織が行政と共に同和対策事業を行っていました。しかし、子供の間で「あれは部落だ」「新平民だ」「エッタだ」と公然と囁かれ、同和地区の子供を仲間はずれにするようなことがありました。また、学校の校舎移転の際に、一時的に子供を神社の子守り堂通わせた際に、部落の子供を神さんの近くにおくなと周囲の村から抗議が来ることがあったということです。
そこで、不平等な扱いをされた際の抗議手段として用いられたのが同盟休校でした。映画「橋のない川」のような風景が鳥取にもあったわけですね。
しかし、戦後になると、徐々に同盟休校は組織的な行政闘争の手段として用いられるようになってきます。その1つが、過去の記事でも触れた江府町の入会権問題にはじまる行政闘争です。この闘争を主導したのが前田俊政でした。
鳥取の部落解放運動で、前田俊政という人物は大変重要な役割を果たします。彼はかつての部落解放同盟鳥取県連書記長で、解放同盟の中央の委員になった人物でもあります。鳥取市出身で、市議会議員でもありました。彼の地元には銅像が建っています。相当の勉強家でもあり、読書家であったという評判が地元では聞かれます。
同盟休校を用いた行政闘争は成功し、鳥取県や、彼の地元の鳥取市でも多額の同和対策予算が組まれ、区画整理・道路拡張・改良住宅の建設、といった同和対策事業により鳥取の同和地区は大いに潤いました。現在、同和地区の産業が建設業に偏っているのはそういった事情があります。
地域での差別待遇もなくなった、環境も改善された、という状況で、同盟休校はやがて政治色を帯びてくるようになります。それが、1970年代に行われた「狭山同盟休校」でした。

指導書に見られる同和教育の偏向と矛盾

人権・同和教育の指導のあり方

前回引用した「人権・同和教育の指導のあり方」についてとりあげます。これは鳥取県教育委員会が出している教師用の指導書で、教育現場への影響は非常に大きなものです。
この指導書の冒頭には「今日も机にあの子がいない」という、同和教育の理念が書かれていますが、内容については、そういった当初の理念の面影はありません。鳥取の同和教育は「解放教育」であり、ある定められた思想を教え込むものです(別の機会に触れますが、企業研修などでは、さらにこのことは顕著になります)。
まず、人権問題として何を題材とするか、ということについて次のものが挙げられています。

  • 同和問題
  • 女性の人権に関する問題
  • 障害者の人権に関する問題
  • 子どもの人権に関する問題
  • 県内在住外国人の人権に関する問題
  • 個人プライバシーの保護
  • 病気にかかっている人の人権に関する問題
  • 学力観の中にある人権に関する問題
  • 労働観の中にある人権に関する問題

特に前半の部分は、「人権教育基本方針」
もそうですが、部落解放人権研究所の「日本における差別と人権」の内容に非常に共通しています。特徴的なのは女性、子供、高齢者を一方的に「被差別者」としているところで、部落解放同盟に偏向した考えです。
鳥取の同和教育では「差別の存在に気づく」ということが重要視されます。つまり、差別が存在することを前提に教育を行います。
そのことは、最後の2項目を除き、漏れなく書かれています。
(同和問題)

一部の地域に対する偏見や差別があることに気づくとともに、その不合理さに対する認識を深める。

(女性の人権に関する問題)

社会や日常のくらしの中に、女性に対する差別や偏見があることに気づくとともに、女性という性に対する自分自身の考え方について振り返る。

(障害者の人権に関する問題)

障害のある人に対する偏見や差別があることに気づくとともに、障害のある人に対する自分自身の考え方について振り返り、自分の生活に活かしていくことができる。

(子どもの人権に関する問題)

人権が侵害されている子どもがいることに気づくとともに、子どもの人権を守るための取り組みについて理解する。

(県内在住外国人の人権に関する問題)

多くの在日韓国・朝鮮籍の人が日本に在住している歴史的背景について理解するとともに、その人たちに対する偏見や差別について考える。

(個人プライバシーの保護)

自分自身のプライバシーが守られていない実態があることに気づくとともに、個人プライバシーを保護することが一人一人の人権に直接関わっていこと(註:ママ)を理解する。

(病気にかかっている人の人権に関する問題)

病気にかかっている人(かかった経験のある人)や共に生活(支援)している人の生き方について理解するとともに、病気にかかっている人に対する差別や偏見について考える。

これはよく誤解されることですが、鳥取で行われている同和教育は差別をなくすためものではありません、差別があると気づかせるためのものです。そもそも、差別のない世の中になれば、この指導書のような教育は成り立ちません。
この指導書の通りに授業する場合、身近に差別が本当になければどうするか?答えは、よそから持ってくるかでっち上げるかのどちらかです。実際に、教師から「差別に気づけ」と責め立てられ、ありもしない差別をでっちあげたり、どうでもいい日常の出来事を差別ということにしてしまう子供がいます(まぁ、自分のことですが)。
もう1つの大きな問題は、徒競走でのバイパスや、順位をつけないといった指導として現場に反映されている、結果平等や向上のための努力の否定です。
「学力観の中にある人権に関する問題」については次の記述があります。

・学力によって人を判断してしまいがちな自分たちや社会の意識について考える。

なぜこれが人権に関する問題なのか疑問です。学校と言う学力によって人を判断する機関が、そのことに嫌疑を抱かせるような教育を行うのは矛盾します。
同様のことは、「障害者の人権に関する指導」にも見られます。以下、引用します。

障害のある人もない人も、お互いの「差異を尊重」することで、一人一人のくらしや生き方が豊かになり、共に地域社会で生きていくことができる。
しかし、今日まで障害者差別が根強く残っているのは、これまで障害のある人の人権を考える観点が、無意識のうちに健常者が基準とされてきたからであり、障害者が健常者に近づくという発想での取り組みが行われ、障害のある人への障壁(バリア)が意識的にも制度的にも、社会的にも存在したからである。
これからは、障害があるなしにもかかわらず、その人をあるがままに認めることが自分自身をあるがままに人から認められることであるという考えに立ち、共に地域でくらし、学びあい、育て合えるような社会を築いていく必要がある。

これは非常におかしなことです。教育現場を含め、実社会では、障害のあるなしに関わらず、人は現状より上を目指して努力することが良いこととされます。
ある同和教育に熱心な教師の方は、健常者を中心とした発想だとして、自閉症の子供を治療することまで否定していましたが、どう思われるでしょうか?
追記2006年2月13日
治療にはむしろ積極的だが、『「お前は劣っているから引き上げてやる」とか「こっちに来い」』という態度を否定されるそうです。なんだかなぁ…

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「自らが置かれている社会的立場の自覚を深める」指導

教師用指導書「人権・同和教育の指導のあり方」(平成14年3月 鳥取県教育委員会)より引用
「自らが置かれている社会的立場の自覚」とは、「現代社会には部落差別をはじめとするさまざまな差別があり、差別により、いろいろな面で自分や自分の周りの人たちの生き方が制約されている。そのため、自分たちの生き方をより豊かなものにしていくため、自分に直接関わる問題として、部落差別をはじめとするさまざまな差別をなくさなければならないという自覚」のことである。
1 指導にあたっての基本的な考え方
指導にあたっては、児童生徒の発達段階に応じて、次のような自覚を深めていくことをねらいとする。
①自分たちの間に起こる人権に関する問題に気づく。
②差別することが自らの人間性をゆがめ、人を悲しませたり傷つけたり自由を奪ったりする卑劣な行為であることを理解する。
③「児童生徒の間におこる人権に関する問題」と自分自身の関わりについて、自分自身の生活や行動を振り返り、差別をなくしていく行動をする。
④自分自身・親・友達の生き方や生活を見つめ直す中で、「社会にあるさまざまな人権に関する問題」に気づき、その問題を将来にわたって自分自身に直接かかわる問題として捉え、差別をなくしていく行動をする。
また、「自分自身に直接関わる問題として認識する」とは、
①以前に比べて、現在は人々の人権が保障されるようになってきた。それは、部落差別をはじめとするさまざまな差別をなくすための人々の運動があり、その運動を多くの人が支持してきたからである。従って、差別問題を解決していくことが、自分自身の人権の拡大に直接関わっている。
②自分自身の中にある人を決め付けたり見下したりする心に気づき、自分自身が豊かな人間関係やくらしを築いていくために、そのような心をなくしていかなければならない。
ことを認識することである。
2 取り組みにあたって
「自らが置かれている社会的立場の自覚を深める」指導では、一人一人の児童生徒が思いを出し合いお互いに共感しながら、学習を深めていくことが大切である。また、児童生徒にとって、全ての人権・同和問題に関する学習の機会が「自ら置かれている社会的立場の自覚を深める」学習になり得るものでなければならない。
指導にあたっては、次のような点に留意することが必要である。
①指導の必要性やねらい及び事前・事後の指導の手立てなどについて、全教職員が十分に協議し、共通理解を図ること。
②発達段階等に応じた指導内容の一貫性・系統性を図るとともに、児童生徒の学習の論理に適合した教材の開発に努めること。
③児童生徒一人一人の意識の変容を的確に把握するための手だてができていること。
④被差別の立場に立つ児童生徒については、個別指導等の手だてを図るとともに、家庭訪問等による保護者との話し合いを十分に行うこと。
⑤保護者等に対する啓発活動を積極的に推進し、指導の狙いについての正しい理解と協力を得ること。
⑥保幼・小・中・高等学校や・盲・聾・養護学校及び保護者や関係機関等との連携を図ること。

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保護者による反天皇制学習会と、順位をつけない運動会が行われる保育所

小学校での教条的な同和教育と、天皇制否定の問題は以前の記事でも取り上げました。今回は保育園にまつわる同様の話題です。
鳥取市内には、いわゆる「同和保育所」があります。これについては、鳥取市同和対策総合計画に関する記事で触れていますのでご参照ください。
以下は、とある同和保育所の保護者会の1998年度の活動計画です(保育園や地域が特定できる部分は伏字にしてあります)。

4月  総会(年間の活動計画・予算計画など)
5月  保育所職員との座談会
  (鳥取市同和地区子育て推進事業)
  「基本的生活習慣の確立」をテーマ
  保育所職員による寸劇
  クラス別座談会
  ○○○運動会(保・小・中保護者主催)
6月  親子遠足(村めぐり)
7月  講演会「親の行き方・子どもの躾」
  (鳥取市同和地区子育て推進事業)
8月  部落問題学習会
9月  体験者発表
  意見交流会
10月 反天皇制の学習会
  保・小・中保護者視察研修
11月 解放文化祭(保・小・中保護者主催/2年に1回)
  料理講習(鳥取市同和地区子育て推進事業)
12月 反天皇制の取り組み(親子で遊ぼう)
1月  保・小・中保護者学習会
2月  卒園児を送る会
3月  総会
新旧役員引継会

以前の記事でも述べたとおり、同和保育所と言っても同和地区専用の保育所というわけではありません。事実この保育所は同和地区外にあり、同和地区からは徒歩で20分程度の距離があります(バス通園が多いようです)。もちろん、ここに通う子供の多くはいわゆる同和関係者ではありません。ただ、一般の保育所と違うのは、同和対策事業で建設され、当時2名の「同和加配保母」が配置されていたことです。
この保護者会は、特に同和地区関係者による保護者会です。その結成のきっかけは、鳥取市同和対策総合計画に書かれているような、同和地区の子供に関する問題を協力して解決するため、とされています。
親子遠足(村めぐり)は「たくましくはばたく力の育成事業」の一環として、自分たちの村をめぐるとういうものです。この事業というのは、鳥取市に限らず、鳥取県下の様々な自治体の同和地区を対象として行われるものです。
体験者発表というのは、おそらく東部で同和教育を受けた方なら知っている「自分が差別された、あるいは差別した体験」を発表する会です。差別を受けたこともしたこともないと思っていた人も、これで差別されたことやしたことに気づかされる、ということです。
問題の反天皇制学習会については、以下のようなものです。
(月刊「部落解放」通号446より引用)

また、十二月二十三日には反天皇制の取り組み「親子で遊ぼう」を行います。これは一九九三年度から実施しているもので、「なぜ天皇だけがみんなの祝福をうけるのか。天皇制がある限り部落差別はなくならない」と、保護者会として親子で一日楽しく過ごし、天皇誕生日に反対する取り組みです。また、一九九五年度からは、この取り組みにむけて事前に保護者会の学習会を実施します。

そして、私が驚いたのは次のことです。こういった教条的な同和教育は鳥取と言えど相当批判されたはずで、もう姿を消したものと思っていました。実際、1980年代はこの保育所でも運動会の徒競走では順位を付けています。
(同じく月刊「部落解放」通号446より引用)

また、いまの保育所の運動会では、一位・二位・三位などの順位をやめていて、順位に関係なく、最後までがんばって走ることに意義があると教えてもらっていますが、ある保護者からは、「このあいだ、小学生の子どもが一〇〇メートル競技で最後だったけれど、『ぼく、最後までがんばって走ったで』と話してくれた。子どもにがんばることの大切さを教えてくれたことに感謝している」という意見もありました。

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