最近、倉吉市役所人権政策課に電話したら、「部落出身で差別を受けてきた」という職員から「市役所まで謝罪に来なさい」というようなエセ同和顔負けの対応をされて延々と2時間ほど絡まれました。
同部署には部落解放同盟の役員が2人おりまして、以前から人権文化センターなどの人権・同和問題関係の部署に配属されています。同和地区マップの削除要請の取り組みは部落解放同盟としても、倉吉市役所としても行なっているということで、解放同盟の活動と市役所の業務の境目がありません。人権政策課が解放同盟の事務所と化しているような状態で、2人の団体役員が強い利害関係のある部署に配属され続けるという、ちょっと今まで聞いたことがないような実態が倉吉市役所にはあるようです。
詳しくは「月刊同和と在日」2月号「匿名で企業に圧力 大阪芸大「人権問題論」講師・北口学の「エセ同和行為」」の中でレポートしています。2月14日発売予定の書籍版「同和と在日3 ―直撃! 部落解放研究全国集会」にも、この2人が誰なのかということを加筆して掲載しています。
さて、鳥取県の部落史研究者の間では非常に有名な宇田川宏先生の論文に「鳥取縣における新部落の形成」というのがありまして、これは倉吉の部落の成り立ちを知る上では貴重な資料です。まず、以下の地図の中央辺りが倉吉市の被差別部落の分布です。
より大きな地図で 鳥取県内の同和地区(被差別部落) を表示
注目すべきは、天神川沿いに部落が多いことです。前述の論文にはこうあります。
次の述べようとするのは明治を中心とする倉吉周辺開田部落の成立についてである。その心軸をなしたものは天神野開田部落でありその中に天神野、西鴨、中田、生竹、安歩、紀穏、志津の七部落を含んでおり、ひとしく開田の名で呼ばれている。
そして、これらの部落は明治から大正にかけて鳥取市や八頭郡の部落から開拓のために移住してきた人により形成されたと説明されています。逆に倉吉市に古くからある部落は勝負谷で、その近くにある妻ノ神は勝負谷の富裕農家が大正時代に土地を買って移転してきたということです。
ちなみに以前、同和地区の企業が加入している部落解放鳥取県企業連合会の加点研修に参加した企業の一覧を鳥取県が黒塗りして公開した時に、鳥取県が消し忘れていた会員企業の秋山組がある「みどり町」も同和地区ですが、この地区は国土地理院の航空写真を見ると昭和になってから新しく整備されて宅地造成されています。
倉吉市役所の人(解放同盟役員)は、なぜか「同和地区」が判明することを異常に嫌いますが、実際は説明した通り倉吉市の同和地区のほとんどは明治以降に荒地を開拓してできたため、いわゆる「穢多地」であった経歴すらありません。倉吉市における「同和」というのは、ほとんどの場合いわゆる「属地」ではなく「属人」なわけです。
また、勝負谷は辺鄙な場所にある小戸数の集落ですが、「富裕農家」が移転してできた「妻ノ神」がなぜ同和対策対象地区とされたのかよく分かりません。妻ノ神も小戸数の集落で、戦後間もないころの航空写真を見ても、鳥取市の部落にありがちな住宅が密集しているということもありません。