神戸新聞が報じた八鹿高校事件(2)

少し、前後しますが1974年11月26日の神戸新聞朝刊社会面で、少し大きな記事が載っています。見出しは「違法行為見過ごさぬ」「県警警備部長説明 教師の負傷者45人」となっており、山田忠孝兵庫県警警備部長から、県議会で次のような事件の経過が説明されています。

八鹿高では同和教育のあり方をめぐって紛糾が続いていたが、二十二日朝、教師側が授業を打ち切り、休暇届をし出て(ママ)集団下校中、同高差別教育糾弾闘争会議のメンバーが教師らを体育館に連行して各種の暴行を働いた。教師四十五人が負傷、うちの六人の重傷者が出、二十八人(その後一人退院)が入院した。
一一〇番で連絡を受け、学校長、県教委側と接触、事情聴取する一方、場合によっては救出活動すべく警察官を動員したが、学校長、県教委側は「警察が介入すると事態はさらに困難になる。いま、話し合いは平穏に続いている」と再三繰り返し、最後まで出動要請はなかった。同夜、集会が終わったあと、事態を確認した。現在、全力をあげて操作を進めている。

その後県議会で県警の責任を問う声が出ますが、「違法行為はささいなものでも看過しない」と言いつつも「この問題は根が深く、むずかしい」と釈然としない答弁をしています。
一方、「人間性を否定する差別が根本問題」という見出して、部落解放同盟兵庫県連、小西弥一郎委員長の会見内容が掲載されています。

今回の問題は現象面だけにとらわれず部落差別という社会的におおきくしかけられた暴力が存在することを理解してほしい。部落差別によって被差別部落の人間は暴力的に市民的な権利をいっさい奪われている。八鹿高校でも、生徒が死をかけてハンストに訴えるような差別教育が行われてきたから、差別の暴力をなくすために立ち上がったのだ。
法治国家でありながら警察側は、この差別に対する暴力を同対法の精神に立って捜査する能力を持っておらず、同盟が国民審判によって糾弾する以外に解決の方法はないと考える。しかし、糾弾への挑発が、共産党側の差別キャンペーンなどにあらわれており、挑発に乗せられた結果、双方の小ぜり合いを一方的な暴力として相手側が意図的に強調していると確信している。
今後はあくまでも差別を追放し、八鹿高の教師については一人一人をていねいに説得し、問題の本質を理解してもらうつもりだ。今回の糾弾を通して労組などの関係団体、各町長が暴力的名差別を解決するために立ち上がっており、部落問題の根源をつかむことができたと思う。

部落解放同盟側は、このように、正当なことをやったという見解を出しています。「差別発言は言葉の暴力である」こういった論理で物理的な暴力を正当なものとする解放同盟の姿勢は今も変わってないように思います。このことについては、次回で説明します。
一方、1990年11月28日に刑事裁判での有罪が確定した後、民事裁判に向けて解放同盟側は解放新聞上で「日共(日本共産党)のデッチ上げ」として、暴力を否定しています。しかし、当サイトで紹介した各一般紙の報道と、解放同盟側も滋賀県連が暴力の事実を確認している通り、暴力と言う不法行為があったことは疑いありません。
1974年11月27日全国紙の読売新聞では「八鹿高正常化へ」という見出して授業再開の目途が立ったことを報じて以後続報はありませんが、実際はもっと厳しい状態でした。29日、神戸新聞は「授業再開ならず」「八鹿高校遠い正常化の道」という見出して生徒への影響を生々しく報道しています。

同和教育をめぐって混乱している兵庫県養父郡八鹿町の県立八鹿高校(珍坂邦巌校長、生徒数約千三百人)で、国・勤労ストが回避された二十八日、生徒自治会執行部と学校の申し合わせどおり、生徒の登校が再開された。しかし、校長、教頭、農業科教諭や事務職員以外に出勤する教員はなく、授業はまたできずじまい。県教委の派遣職員らは「一日も早い正常化を」と話しているものの、具体的な打開策については手さぐりの状態で、正常化の目途は立たず、進学、就職シーズンを目前に控えた三年生をはじめ、生徒全体に深刻な影響が出始めている。
同校事務局や県教委職員の説明によると、この日登校した生徒は約六百五十人。自治会執行委員が一時限目の始まる前に各クラスに出向いて学級委員長がそれぞれ出席をチェックするように訴えたが、一、二年生は各六〇%、三年生は三分の一程度にとどまった。また、教職員側の出勤者は校長、教頭を含む農業科の職員、自習職員十四人、事務職員ら十六人と県教委が派遣した指導主事十七人で普通科教員はゼロ。このため、正規の授業は不可能になり、一時限目はホームルームに切り替えて生徒だけで学習方法などを討議、二時限目は各教室の清掃を行った。
このあと、生徒はホームルームの討議を元に、クラス委員長会、ホームルーム委員長会、代議委員会と文化、運動部などの部長会を並行して開き「われわれの手で学園の正常化を」と午後からも話し合いを深めた。しかし、生徒の多くは午前中に下校し、授業再開への道の遠さを見せつけた。

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神戸新聞が報じた八鹿高校事件(1)

神戸新聞 1974.11.23
地元兵庫県の神戸新聞は、事件翌日の1974年11月23日の朝刊の社会面で中程度の記事で伝えていますが、その日の状況を生々しく記述しています。以下、第一報の全文を引用します。

見出し: 「解放研と教師対立 数人ケガ授業できず 同和教育めぐり 八鹿高」
兵庫県養父郡八鹿町の県立八鹿高校(珍坂邦巌校長)で、同和教育、サークル活動の部落解放研究会のあり方をめぐって、教師側と解放研の生徒や部落解放同盟などの八鹿高差別教育糾弾闘争共闘会議(丸尾良昭議長)が対立。解放研のメンバー二十一人が二十一日午後からハンストに入っていたが、さらに二十二日朝、一斉に休暇届を出し下校しようとした教師集団と、止めようとした共闘会議の間でトラブルが起き、八鹿署の調べで教師ら数人がケガをした。
同署の調べでは、同日午前十時ごろ「同町新町の路上で教職員二十-三十人が解放同盟の百人ぐらいに囲まれ、ケガ人が出ている」と一一〇番があり、同署員が出動したが、すでに教師、共闘会議のメンバーらは同高体育館へ入っていた。このあと同署は公立八鹿病院で手当てを受けている教師ら数人を確認、県警本部へ連絡するとともに但馬各署へ応援を要請した。同高では、夜に入っても教師への確認会が続き、共闘会議は決起集会を開いた。
一方、同校の生徒ら数百人が「暴力反対」を訴え町内をデモする動きもあり、県教委職員、父兄らともみ合う場面もあった。結局、生徒らに丸尾共闘会議議長が「事実をよく見てほしい。暴力はいけないが、この起きた背景にこそ部落差別がある」と呼びかけ、同盟役員らが「八鹿高生徒が喜んで授業できるように話し合っていこう」とアピール。生徒らは改めて「暴力反対」を決議したあと夜になって解散した。
また兵高教組(吉冨健二委員長)は同夜「教育の問題は外部の圧力で解決すべきでない。全教職員が一刻も早く教育活動の自由を取り戻せるように望む」と声明を出し、県教委、警察に要請した。
同高では以前からサークル活動として部落研があったが、新たに今年七月解放研が結成された。解放研側は教師側に「正式の活動サークルとして認めよ」という要請を続けてきたが、校長、教頭を除く教師側は「解放研は外部の指導によってつくられたもので、学内活動のサークルと認められない」という態度をとってきた。解放研側は今年十八日朝、三項目の要求を出し、二十余人の生徒が職員室前で座り込みを始め、二十一日から解放研の二十一人がハンストに入った。
解放研の教師側への要求は(1)解放研の顧問(現教頭一人)をさらに三人つけること(2)解放研と先生との話し合いを持つこと(3)現在の同校同和教育は、部落の解放とすべての生徒の幸せにつながっていないこと-を認めること。
これに対し教師側は職員一同の名で(1)解放研の性格は運動体の一環で、そのまま学校教育の現場に受け入れることはできない。(2)外部の圧力がかかっている状態で生徒と話し合うことはできない(3)話し合いは解放研結成以前の状況に戻すことが先決-としている。

なお、八鹿高差別教育糾弾闘争共闘会議の丸尾良昭議長は、後の刑事裁判で、この事件の主犯格として懲役三年、執行猶予四年の判決を受けています。
翌日24日の朝刊の社会面には、「36人が入院 八鹿高校事件」という見出しで小さな記事が載っています。その中で、八鹿署の23日午後3時半の発表として「ケガ人の実数は、まだ十分つかめていないが、八鹿病院で診察を受けたのは先生ら四十三人とハンストの二十一人。うち先生ら二十八人、ハンストの生徒八人の入院を確認しているが、重軽傷別は不明」としています。
そして、25日月曜日の夕刊では、「八鹿高校事実上の休校状態 生徒らほとんど登校せず」という小さな記事で、授業再開を予定していたにもかかわらず、生徒が数百人、先生は数人しか登校しなかったことを伝えています。また、公立八鹿病院の説明として「二十四日夜の時点で、セキ椎骨折などの重体一人、治療一-二ヶ月の重傷者七人、あとの先生は治療十日から三週間」と伝えています。
以後、神戸新聞は小さな扱いでしたが、事件の続報を伝えました。

  • 26日夕刊 – 生徒会が正常化へ三要求
  • 27日朝刊- 八鹿問題で共産党代表が兵庫県に申し入れ
  • 27日夕刊- 45人ケガ 入院28人
    28日以降、全国紙が沈黙した後も、事件は終わっていませんでした。八鹿の長い日はまだまだ続きます。
  • 日本海新聞も報じなかった八鹿高校事件

    米子市民による身元調査差別事件で、私はその米子市民が「(部落解放同盟の)裏の組織が殺しに来る夢をみた」と言った事が本当に差別であるかどうか、疑問を呈しました。その引き合いに出したのが、八鹿高校事件です。
    八鹿高校事件とは、兵庫県八鹿町(2004年4月1日に合併により養父市に編入)の県立八鹿高校で起きた、同和問題に絡む大規模な暴行・監禁・傷害事件です。この事件では八鹿高校の48人の教職員が重軽傷を負い、後の刑事裁判で暴行を行った部落解放同盟側の13人の刑が確定しています。
    この事件については、同和利権の真相(4)で詳しく解説されています。事件の内容についてはその本を見ていただくとして、鳥取ループでは当時その事件がどのように報道されたかに的を絞って書くことにします。
    この事件について特徴的なのは、被害者の多さと、陰惨な事件が高校という教育の場で行われたと言う重大な事件にも関わらず、マスコミでの扱いが非常に小さかったことです。同和問題というのは最大のタブーと言われますが、確かにマスコミが同和団体にからむ事件を報道することを避けていたことがうかがい知れます。しかし、一般のマスコミが完全に黙殺していたわけではありません。
    毎日新聞 1974.11.24事件の2日後の1974年11月24日の毎日新聞は、社会面に「教諭ら43人けが」「兵庫県八鹿高 同和教育めぐり紛糾」という見出して、中程度の大きさの記事を出しています。
    記事では、部落解放同盟側の約100名と、八鹿高校教諭約60名がもみ合い、43人が負傷、28人は入院した(八鹿署調べ)と報じています。また、背景として、八鹿高校側が「部落解放研究会」をサークルとして承認しなかったことから部落解放同盟側と対立していたことが報じられています。
    読売新聞 1974.11.25また、読売新聞は事件から3日後に、社会面で「警察署長を告発」「兵庫県高教組 同和教育めぐる紛糾」という見出しで小さな記事を載せています。記事の要旨は毎日新聞とほぼ同じですが、ここでは負傷者39人、28人が入院となっています。
    読売新聞は26日の記事で「事実上の休校に 八鹿高」という見出して続報を載せ、負傷者を44人、27人が入院と数字を訂正しています。そして、2827日は「八鹿高正常化へ」という記事が載せられています。いずれも、社会面で小さな扱いです。
    3大紙の中で唯一朝日新聞は一切報じませんでした。
    また、鳥取県のローカル紙である日本海新聞山陰中央新報も当時、この事件を全く報じていません。
    赤旗 1974.11.23一方、部落解放同盟と対立関係にある日本共産党の機関紙赤旗は、連日大きな扱いで報道しました。全国紙が2日または3日後に事件を報じたのに対し、赤旗は翌日に「朝田一派 教師に血の集団リンチ」「5人重体、38人重傷」と一面で報じています。
    一般紙の中でも、赤旗ほどではありませんが、事件を比較的詳しく報じた新聞がありました。神戸新聞です。次回は、神戸新聞の内容を中心に、当時の報道を詳しく見てゆきます。

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    行政闘争の代償として失われたのは何か

    私は、オール・ロマンス事件に始まった行政闘争について、パンドラの箱を開けたと表現しました。こういった行政闘争は、1957年の部落解放同盟第十二回全国大会で打ち出された「日常、部落に生起している問題で、部落にとって、部落民にとって不利益な問題が差別である」という考えに基づいています。
    これは、とても極端な考えです。なぜなら、この世の中の不利益、差別といったものは部落差別に限ったことではありません。元々豊かな家に生まれた人は生まれつき豊かあり、貧しい家に生まれた人は生まれつき貧しいです。それは本人の責任ではありません。しかし、だからといって行政が生まれつき貧しい人を特別に助けてくれることはありません。しかし、それが部落問題に起因するものだけは例外ということになります。
    当然、なぜ部落だけが、という不平不満が周囲から出ます。しかし、解放同盟は「それは、ねたみ意識である。周囲にそういった意識が生まれているのは、行政がしっかり啓発をやらないからだ。」と、全の責任を行政に負わせてしまいます。
    かくして、解放同盟の言うところの「ねたみ意識」を産む危険のある部落優遇政策を正当化するために、同和教育や研修といった「啓発」を行政の責任でやり続けなくてはならなくなりました。その内容も、部落も部落外も平等に、といった融合論ではなく、差別を解消する責任は全て差別する側(部落外の人間)にあるという偏ったものになります。つまり、経済的な平等を劇的なスピードで勝ち取った代償として、結局は生まれた土地や住んでいる土地によって従来の部落差別とは別の意味の壁を作ってしまうという、矛盾した結果を生んでいるのだと思います。
    もちろん、部落の住民も全てがそれを望んでいるわけではありませんでした。1970年、解放同盟内でこういった極端な方向へと進んでゆく運動に嫌気がさした人々が、部落解放同盟正常化全国連絡会議として分裂します。これが後の全解連で、「部落民に不利益なことは全て差別である」といった考えを「朝田理論」として激しく批判します。これは、こういった考えを提案したのが解放同盟の中央執行委員長であった朝田善之助という人物であるためです。現在は全解連という組織は存在しません。既に部落問題は解消したという立場を取り、全国人権連と名前を変えています。旧全解連の存在は鳥取ではほとんど知られていなかったと思います。もちろん、同和教育や研修では旧全解連のことは全く触れられません。
    歴史的には部落されていながら、同和地区としての優遇措置を拒否した部落もあります。鳥取でそういった部落があるという話を私は聞いたことはありませんが、隣の島根県にはいくつかあるようです。
    1993年、当時の社会党の部落実態調査団がそういった「未指定地区」を調査したことがあります。当時の解放同盟の機関紙「解放新聞」は、島根県宍道町(現在は松江市に編入)の対応についてこう伝えています。

    宍道町は調査団に「特定することが困難」であり、「当時の地区代表に意向を聞いたところ“そっとしてほしい”との強い要請があり、地区が存在しないことにされた」と「未指定」の理由を話す。
    調査団との話し合いで川島町長は、「そっとしてほしい」の裏に、差別の重しがあることが分かった。もう一度、視点を変えてとりくむ必要がある」とのべ、町民の意識改革にもとりくみたい、との認識を示した。

    この記事には、「島根県内の『未指定地区』。海に面した山の斜面に積み上げたように家が並ぶ。」というキャプション付きで「未指定地区」がどこなのかっきり分かる写真が載せられています。
    「そっとしてほしい」というのは「寝た子を起こすな」論であると批判されますが、私はこの地元の方の言葉は額面通り受け取ってよいと思います。「差別された者の痛みは差別された者でなければ分からない」と言いますが、経済的な豊かさよりももっと大切なことがある、という価値観は万人に共通のものではないかと思います。

    オール・ロマンス事件と江府町の入会権問題

    鳥取で同和教育を受けた方は、「オール・ロマンス事件」をご存知であると思います。私が小学校の同和教育で最初に習ったのがこの事件です。しかし、当時の私には、この事件の持つ意味をさっぱり理解できませんでした。
    過去の記事でも少し触れていますが、知らない方のために、私が高校の頃に職員室から拝借してきた「高校生の部落問題」という本から少し抜き出してみます。

    大衆雑誌「オールロマンス」の一九五一年十月号に「特殊部落」と題する差別にみちた小説がのせられました。この小説をとり上げた部落解放委員会京都府連合会は、オールロマンス社に抗議したなかで、この小説の作者が京都市役所の職員であり、環境衛生指導員として九条保健所に勤務していることがわかりました。

    この事件以前の部落解放運動では、オールロマンス社や職員個人が糾弾されて終わりでしたが、現在の部落解放同盟の全身である部落解放委員会はさらに矛先を京都市の行政へと向けて行きます。この運動は成功し、翌年京都市は莫大な同和対策予算を計上しました。
    このような、行政に対して圧力をかける方法は、鳥取にも波及します。1956年、日野郡江府町では、同和地区と近隣地区との山林の入会権を巡って、同和地区住民による納税拒否という抗議運動が起きました。これを指揮したのが、オールロマンス事件に始まる行政闘争の手法を学んでいた、前田俊政という人物です。運動はさらにエスカレートし、小中学生までが学校をボイコットします。最終的には、江府町が町有林を割譲して近隣地区と同等の面積への入会権を認めるという形で決着しました。
    同様の運動は、鳥取市、智頭町、国府町にも波及します。
    これをきっかけに、同和地区の環境改善は劇的に進みました。しかし、その一方でパンドラの箱を開けてしまった面もあります。江府町では町有林の割譲という公共の財産の分配が、単なる話し合いではなく、納税拒否や子供を巻き込んでのボイコットなどといった実力行使によって行われました。当然、当事者からも異論が出るはずなのですが、次のような考え方によって正当化されました。

  • 日常、部落に生起している問題で、部落にとって、部落民にとって不利益な問題が差別である
  • 部落とって不利益なことは、全てかつての社会制度によるものであるから、全ての責任は行政にある
    逆に言えば、部落民には全く責任はないということです。これは、鳥取の同和教育でも徹底して教えられることで、同和地区の人間の責任に触れることはタブーとなっています。
    ところで、行政によって同和地区に集中的に予算を配分することは、戦前の鳥取でも行われていました。これは「畏くも明治天皇が解放令を出されたのに、未だ民衆の中に差別があるのは聖意に背くものでけしからん」という同胞融和運動に基づくものでした。しかし、同和地区出身の有力者もこの運動を推進し、鳥取ではかの水平社も協力していたと言われています。これはある程度の成果を上げていましたが、私有財産に公権力が原則として介入しない日本においては、経済的な問題について劇的な変化を期待するのは難しい面もありました。
    ともかく、オール・ロマンス事件を機に始まった行政闘争により、同和地区と地区外の住民が共に協力すると言った融和運動は姿を消し、同和地区住民の闘争による自らの解放といった方向へと運動は変化しました。
    オール・ロマンス事件は、部落問題そのものではなく、部落解放運動の変化という意味で大きな事件であったのだと思います。そうでなければ、誰かが同和地区をネタに侮辱するような小説を書いたから、抗議した、というだけの話でしかありません。
    もし、戦前のような同胞融和運動が継続されていたらどうなっていたのか、それは誰にも分かりません。しかし、今、鳥取の同和地区の環境は劇的に改善しました。一方で鳥取の各自治体には同和地区に優先して利益を配分する制度が残り、行政は「今でも根強い差別が存在する」と主張しているのが事実です。

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