運動会では遅い子は近道、指導で天皇制を否定?

私が小学生の頃は、運動会の徒競走で1等を取る度に、赤いリボンが渡され、それを胸につけたものでした。…といっても、私はリボンをもらったことがありません。クラスでも最下位レベルの足の遅さだったので、当然と言えば当然です。
そして、中学最後の運動会、とても印象的な思い出があります。そんな私が、なぜか学年対抗リレーのアンカーになったのです。別にいじめという訳ではありません。中学校の運動会は1人何種目までと割り当てが決まっていて、クラス対抗リレーの割り当てを決めるときに他の人の参加種目がぜんぶ決まっていたので、その時たまたま空きがあった私が割り当てられたということです。結果は言うまでもなく、かえって心地よいほどの見事な惨敗でした。
そういう屈辱を味わった私にはちょっと信じられない話が飛び込んできました。鳥取県東部のとある小学校の保護者の方は、次のように証言しています。
「私の子供が通う小学校は、男女すべて『○○』さんと呼んでいます。子供に『へんだよ』というと先生が『君と言うのは天皇のことだから、人権学習の基本で男の子もさんで呼びなさいと言われたよ。君で呼ぶと怒られる』と言ったのにはビックリ仰天でした。」
「ついでに、運動会のリレーでは、おそい子は、コースを近回りして走るルールになっています。ルールの名前まで付いていて『バイパス』と呼んでいます。日付は公文書を含むすべて西暦です。元号は天皇制を認めるから使わないと言うことです。あきれた同和教育です。」
「バイパス」については、私が高校生くらいの頃に同様のことが大問題になり、私の母親も、「運動会くらいしか活躍のない子もいるのに、いくらなんでもおかしい」と言っていました。当時はマスコミでもさんざん叩かれたので、私はもう姿を消したものと思っていたので、まだあるとすれば驚くべきことです。
公文書で元号を使わないことと、天皇制の否定と関係があるのかということについては、既に人権局が微妙な回答をしています。ただ、「君」という敬称は天皇だから使わないというのはやや病的に感じられます。
この件について、当の学校の校長から次のような回答が得られています。
Q. 「君」は天皇のことだから、男女とも「さん」で呼ぶといった指導はされているのか?
A. 校区として決まっていることではないが、わが校では男女とも同じようにさんづけで呼ぶように指導しているのは事実。天皇制のような、宗教のからむようなことは学校ではやれないので、「君」は天皇だから、といった指導はしていない。
Q. 運動会で遅い子を近道させる、「バイパス」といったルールは存在するのか?
A. 子供の方からでた考えで、「バイパス」をやっていた時期は確かにあった。今年はやらなかったと思う。
Q. 学校で配布する文書を西暦に統一しているのは、元号を使うのは天皇制を認めることになるからなのか?
A. 公文書を西暦で統一しているのは、わかりやすいということと、世界共通であるというのが理由。天皇制うんぬんというのは、同和教育のからみで職員としてそういった意識はあるかもしれないが、学校としての立場はそういうわけではない。
私は、質問の最中に人権教育や同和教育といった言葉は一切使いませんでしたが、同和教育と関係しているようです。
ちなみに、解放同盟は1960年から今に至るまで、身分意識の強化につながるとして天皇制に反対しています。鳥取の同和教育が解放同盟と密接に関わっていることが、こういったところでも裏付けられます。私は天皇制の是非について、ここで議論することはしません。ただ、天皇のいない国にも門地による差別はありますし、未だに王族や貴族のいるイギリスが代表的な民主主義国家であったりするので、私は解放同盟の考えには賛同しかねます。皆さんはどのように考えるでしょう?

行政闘争の代償として失われたのは何か

私は、オール・ロマンス事件に始まった行政闘争について、パンドラの箱を開けたと表現しました。こういった行政闘争は、1957年の部落解放同盟第十二回全国大会で打ち出された「日常、部落に生起している問題で、部落にとって、部落民にとって不利益な問題が差別である」という考えに基づいています。
これは、とても極端な考えです。なぜなら、この世の中の不利益、差別といったものは部落差別に限ったことではありません。元々豊かな家に生まれた人は生まれつき豊かあり、貧しい家に生まれた人は生まれつき貧しいです。それは本人の責任ではありません。しかし、だからといって行政が生まれつき貧しい人を特別に助けてくれることはありません。しかし、それが部落問題に起因するものだけは例外ということになります。
当然、なぜ部落だけが、という不平不満が周囲から出ます。しかし、解放同盟は「それは、ねたみ意識である。周囲にそういった意識が生まれているのは、行政がしっかり啓発をやらないからだ。」と、全の責任を行政に負わせてしまいます。
かくして、解放同盟の言うところの「ねたみ意識」を産む危険のある部落優遇政策を正当化するために、同和教育や研修といった「啓発」を行政の責任でやり続けなくてはならなくなりました。その内容も、部落も部落外も平等に、といった融合論ではなく、差別を解消する責任は全て差別する側(部落外の人間)にあるという偏ったものになります。つまり、経済的な平等を劇的なスピードで勝ち取った代償として、結局は生まれた土地や住んでいる土地によって従来の部落差別とは別の意味の壁を作ってしまうという、矛盾した結果を生んでいるのだと思います。
もちろん、部落の住民も全てがそれを望んでいるわけではありませんでした。1970年、解放同盟内でこういった極端な方向へと進んでゆく運動に嫌気がさした人々が、部落解放同盟正常化全国連絡会議として分裂します。これが後の全解連で、「部落民に不利益なことは全て差別である」といった考えを「朝田理論」として激しく批判します。これは、こういった考えを提案したのが解放同盟の中央執行委員長であった朝田善之助という人物であるためです。現在は全解連という組織は存在しません。既に部落問題は解消したという立場を取り、全国人権連と名前を変えています。旧全解連の存在は鳥取ではほとんど知られていなかったと思います。もちろん、同和教育や研修では旧全解連のことは全く触れられません。
歴史的には部落されていながら、同和地区としての優遇措置を拒否した部落もあります。鳥取でそういった部落があるという話を私は聞いたことはありませんが、隣の島根県にはいくつかあるようです。
1993年、当時の社会党の部落実態調査団がそういった「未指定地区」を調査したことがあります。当時の解放同盟の機関紙「解放新聞」は、島根県宍道町(現在は松江市に編入)の対応についてこう伝えています。

宍道町は調査団に「特定することが困難」であり、「当時の地区代表に意向を聞いたところ“そっとしてほしい”との強い要請があり、地区が存在しないことにされた」と「未指定」の理由を話す。
調査団との話し合いで川島町長は、「そっとしてほしい」の裏に、差別の重しがあることが分かった。もう一度、視点を変えてとりくむ必要がある」とのべ、町民の意識改革にもとりくみたい、との認識を示した。

この記事には、「島根県内の『未指定地区』。海に面した山の斜面に積み上げたように家が並ぶ。」というキャプション付きで「未指定地区」がどこなのかっきり分かる写真が載せられています。
「そっとしてほしい」というのは「寝た子を起こすな」論であると批判されますが、私はこの地元の方の言葉は額面通り受け取ってよいと思います。「差別された者の痛みは差別された者でなければ分からない」と言いますが、経済的な豊かさよりももっと大切なことがある、という価値観は万人に共通のものではないかと思います。

オール・ロマンス事件と江府町の入会権問題

鳥取で同和教育を受けた方は、「オール・ロマンス事件」をご存知であると思います。私が小学校の同和教育で最初に習ったのがこの事件です。しかし、当時の私には、この事件の持つ意味をさっぱり理解できませんでした。
過去の記事でも少し触れていますが、知らない方のために、私が高校の頃に職員室から拝借してきた「高校生の部落問題」という本から少し抜き出してみます。

大衆雑誌「オールロマンス」の一九五一年十月号に「特殊部落」と題する差別にみちた小説がのせられました。この小説をとり上げた部落解放委員会京都府連合会は、オールロマンス社に抗議したなかで、この小説の作者が京都市役所の職員であり、環境衛生指導員として九条保健所に勤務していることがわかりました。

この事件以前の部落解放運動では、オールロマンス社や職員個人が糾弾されて終わりでしたが、現在の部落解放同盟の全身である部落解放委員会はさらに矛先を京都市の行政へと向けて行きます。この運動は成功し、翌年京都市は莫大な同和対策予算を計上しました。
このような、行政に対して圧力をかける方法は、鳥取にも波及します。1956年、日野郡江府町では、同和地区と近隣地区との山林の入会権を巡って、同和地区住民による納税拒否という抗議運動が起きました。これを指揮したのが、オールロマンス事件に始まる行政闘争の手法を学んでいた、前田俊政という人物です。運動はさらにエスカレートし、小中学生までが学校をボイコットします。最終的には、江府町が町有林を割譲して近隣地区と同等の面積への入会権を認めるという形で決着しました。
同様の運動は、鳥取市、智頭町、国府町にも波及します。
これをきっかけに、同和地区の環境改善は劇的に進みました。しかし、その一方でパンドラの箱を開けてしまった面もあります。江府町では町有林の割譲という公共の財産の分配が、単なる話し合いではなく、納税拒否や子供を巻き込んでのボイコットなどといった実力行使によって行われました。当然、当事者からも異論が出るはずなのですが、次のような考え方によって正当化されました。

  • 日常、部落に生起している問題で、部落にとって、部落民にとって不利益な問題が差別である
  • 部落とって不利益なことは、全てかつての社会制度によるものであるから、全ての責任は行政にある
    逆に言えば、部落民には全く責任はないということです。これは、鳥取の同和教育でも徹底して教えられることで、同和地区の人間の責任に触れることはタブーとなっています。
    ところで、行政によって同和地区に集中的に予算を配分することは、戦前の鳥取でも行われていました。これは「畏くも明治天皇が解放令を出されたのに、未だ民衆の中に差別があるのは聖意に背くものでけしからん」という同胞融和運動に基づくものでした。しかし、同和地区出身の有力者もこの運動を推進し、鳥取ではかの水平社も協力していたと言われています。これはある程度の成果を上げていましたが、私有財産に公権力が原則として介入しない日本においては、経済的な問題について劇的な変化を期待するのは難しい面もありました。
    ともかく、オール・ロマンス事件を機に始まった行政闘争により、同和地区と地区外の住民が共に協力すると言った融和運動は姿を消し、同和地区住民の闘争による自らの解放といった方向へと運動は変化しました。
    オール・ロマンス事件は、部落問題そのものではなく、部落解放運動の変化という意味で大きな事件であったのだと思います。そうでなければ、誰かが同和地区をネタに侮辱するような小説を書いたから、抗議した、というだけの話でしかありません。
    もし、戦前のような同胞融和運動が継続されていたらどうなっていたのか、それは誰にも分かりません。しかし、今、鳥取の同和地区の環境は劇的に改善しました。一方で鳥取の各自治体には同和地区に優先して利益を配分する制度が残り、行政は「今でも根強い差別が存在する」と主張しているのが事実です。

  • 1993年から行われた条例、宣言制定運動

    以前、1994年の謎などと書きましたが、実は1993年の時点で動きが始まっています。
    部落解放基本法の影響を受けた条例は、実は鳥取県の智頭町が全国初です。智頭町基本的人権の擁護に関する条例を1993年の6月18日に制定しています。そして、それからわずか2年余りで鳥取県全域を席捲し、ついには鳥取県人権尊重の社会づくり条例という県レベルの条例までできました。
    対立する共産党などは、このような条例を「解同条例」と揶揄しましたが、実際にその通りで、解放同盟による解放同盟のための条例でした。事実、条例によって設けられる審議会のほとんどには、解放同盟の関係者が加えられています。八頭町日野町に至っては、町の規則で解放同盟関係者を加えることがはっきりと明記されています(合併前の町村には、そのようなところがもっとありました)。
    こういった条例の制定運動はある程度成功し、西日本を中心に、他の自治体でも同様の条例が制定されて行きます。そして、影響は中央にも及びます。
    1994年、現民主党代表の前原誠司氏が、当時の部落解放基本法制定要求国民運動の大会で次のように語っています。

    政治改革ということで細川政権はスタートしたが、まだ実現していない。われわれは平場の意見のなかからでてきた素人集団だが、あらゆる差別に反対していく。「基本法」制定へ積極的に努力していく。差別反対、平等実現へ努力していく。

    結局、部落解放基本法は制定されませんでしたが、1996年に人権擁護施策推進法が制定されたので、ある程度の成功を見たのではないかと思います。
    しかし、なぜ1993年から1995年にかけ、あれほどまでに電撃的に条例が制定されたのでしょうか。
    実は1993年に、広島県で結婚差別を苦に部落出身の女性が自殺した、という事件が明らかになっています。そして、解放同盟による、結婚差別犠牲者の追悼と、差別撤廃のための条例制定要求の全国キャラバンが始まります。結婚差別により女性が自殺した、という事件は、「もう差別はないから条例は必要ない」と言う人を沈黙させるには十分なことであったでしょう。
    ちなみに、この自殺した女性は17歳の女子高生、相手の男性はかつての副担任だった33歳の中学校教師です。この事件については、別の機会に詳しくお話しましょう。

    部落解放基本法と鳥取各地の「部落差別」条例

    鳥取県下の全ての市町村には例外なく「差別」に関係する条例があります。以下が、その一覧です(50音順)。

    自治体名 条例の名称
    岩美町 岩美町あらゆる差別をなくする条例
    倉吉市 倉吉市部落差別撤廃とあらゆる差別をなくする条例
    江府町 江府町部落差別撤廃とあらゆる差別をなくする条例
    琴浦町 琴浦町部落差別撤廃とあらゆる差別をなくする条例
    境港市 境港市から差別をなくす条例
    大山町 大山町部落差別撤廃とあらゆる差別をなくする条例
    智頭町 智頭町基本的人権の擁護に関する条例
    鳥取市 鳥取市における部落差別をはじめあらゆる差別をなくする条例
    南部町 南部町における部落差別をはじめあらゆる差別をなくす条例
    日南町 日南町基本的人権の擁護に関する条例
    日吉津村 日吉津村における部落差別をはじめあらゆる差別をなくす条例
    日野町 日野町部落差別撤廃及び人権擁護に関する条例
    伯耆町 伯耆町部落差別をはじめあらゆる差別をなくする人権尊重に関する条例
    北栄町 北栄町部落差別をはじめあらゆる差別をなくする条例
    三朝町 三朝町部落差別撤廃とあらゆる差別をなくする条例
    八頭町 八頭町部落差別撤廃及び人権擁護に関する条例
    湯梨浜町 湯梨浜町部落差別撤廃とあらゆる差別をなくする条例
    米子市 米子市における部落差別をはじめあらゆる差別をなくする条例
    若桜町 若桜町部落差別撤廃・人権擁護に関する条例

    すこし古いですが、部落解放・人権研究所のページに分かりやすくまとめられています。どれでもよいので、いくつか内容に目を通してみてください。

    ご覧の通り、これら条例は特に部落差別を視野に入れたものであることが分かります。
    実際、境港市を除けば、条例の名前または内容に「部落差別」という言葉が入っています。

    これらの条例は、各自治体が人権擁護のための施策を行い、住民もそれに協力するという点で共通していますが、それぞれ微妙な違いがあります。例えば、米子市、境港市を除いて人権擁護のための審議会の存在があります。伯耆町、湯梨浜町、大山町、倉吉市、三朝町、江府町、琴浦町は、関係民間団体による住民に対する研修や啓発について触れられています。智頭町では町が差別行為に関係した者に対し、関係団体と連携し指導及び助言を行うと定められています。

    そして、さらに注目すべき点は、これらの条例が共通して1994年か1995年に制定されていることです(合併により再制定された自治体を除く)。さて、この年にいったい何があったのでしょうか。

    1985年から解放同盟を中心に、「部落解放基本法」という法律を制定しようという運動が行われていました。ご存知の通り、結局は部落解放基本法の制定は実現されませんでした。
    当時の解放同盟は社会党と親密な関係にありましたが、この法律については自民党よりもむしろ同じ連立政権の仲間であった共産党から激しく批判されていました。曰く、「これは部落解放どころか、部落固定化法である」と。

    この頃、鳥取市の三洋製紙のすぐ近くにある中央隣保館には「部落解放基本法の制定を実現しよう」という大きな横断幕が出ていたのを覚えています。
    そして、私が学校で同和教育を受けたことを知った祖父は、この法律に関していつになく真剣な顔で次のような話をしました。

    「昔はな、確かに差別はあっただ。○○(同和地区のこと)の者は貧乏だったけぇ、椀移しと言って、うらげの村のもんが食べ物を恵んでやらないけん状態だっただ。だけど、いつまでもそんなんじゃぁいけんということで、国が法律を作っただ。そういうことがあって、○○は道が広うなって、綺麗になって、これでもう、同和地区だとかいうことは気にせんでもええようになると思とっただが。」

    それから祖父は、小学生だった私に「時限立法」について長々と語りました。これは同和対策事業特別措置法のことです。部落差別をなくすための法律なのだからら、時間を区切るのが当然だというのが祖父の考えでした。そして、祖父は続けました。

    「だけどもな、今度は○○の者がそれを永久立法にしようっちょうるだが。だけどな、それは絶対やっちゃあいけんと思うだが。永久に同和地区を残して、○○とうらげの村の間に永久に壁を作るっちゅうことだけな。」

    祖父は私が中学生の時に亡くなりました。
    私は祖父の言葉の意味が分かるのに、10年くらいかかりましたが、小学生の頃のこの話は、今でもはっきりと覚えています(ちなみに、祖父は共産党とは全く関係ありません…)。

    ところで、部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会が作った原案をご覧下さい。これを読んでみると、鳥取県各地で制定された条例の内容と非常によく似ていることが分かります。
    現在、人権擁護法の条例版が鳥取で制定されたようなことが、当時も起こっていたのです。

    今回は話が横道にそれてしまいましたが、次はいよいよ1994年の謎に迫ります。

    同和教育に疑念を抱くとき

    中学卒業間近の頃、私が図書館で手に取ったのは「もうやめへんか『同和』」という本だった。正直、同和教育を「くどい」と思いつつも、それを正直に言えない状況で、このような題名の本は衝撃的だった。
    今となっては内容はあまり覚えていないが、いつまでも同和地区に特別な措置を続けるのはやめて、差別はなくなったと宣言し、同和地区の存在自体をなくしてしまおうという内容だった。今まで差別を見逃してはいけない、差別がないと言うのは間違いだとさんざん教えられてきた私には、とても衝撃的な内容であった。
    高校に入ってからは、あまり同和教育はなかった。時々啓発映画を見せられたり、寒い授業をするくらいだった。その反面、私が最も同和問題に関心を持っていた時期であった。
    私は図書館に行き、同和問題関連の本を調べた。そして、今学校で行われている同和教育が全て「部落解放同盟」の主張と一致していること、そして、「全国部落解放運動連合会」(全解連)が真っ向からその主張を批判していることを知った。そして、同和問題への過剰な反応により、「言葉狩り」といった問題が起きていることや、新聞やテレビでほとんど同和問題に触れることができない現実を知った。こういった事実は学校の同和教育では全く語られなかった。つまり、世の中には多種多様な意見があるにも関わらず、特定の意見だけを取り上げて、それ以外を隠していたのだ。
    当時、私は短波ラジオで北朝鮮の放送を聞くという変な趣味があった(鳥取は日本海側なので朝鮮半島からの電波がよく受信できる)。それから、戦時中のことが書かれた本を読むのが好きだったりした。だから、北朝鮮の思想教育や、中国やソ連の捕虜収容所で行われた洗脳教育のことは、よく知っていた。だから余計に気味の悪いものを感じた。
    私は、高校卒業間近、「行政に特定の団体が入り込んで、県民を洗脳して、利権を漁っている!」と確信したと書いた。そのきっかけは、大阪府立図書館で、同和問題に興味を持つ人には有名な「八鹿高校事件」を調べたことである。
    とある用事で大阪に行ったとき、大阪府立図書館に立ち寄った。目的は最初から、八鹿高校事件当時の1974年11月22日に何があったのか、調べるためだった。私は当時の読売新聞、部落解放同盟の機関紙である解放新聞、そして全解連と共に解放同盟と対立していた共産党の赤旗を読んだ。私が見たのは、社会面のすみで少しだけ事件を報じた読売新聞、これでもかと対立する共産党を批判する解放新聞、そして、でかでかと事の詳細を報じて、連日のように解放同盟を批判する赤旗だった。
    私が気味の悪いものを感じたのは、48名が監禁・暴行され重軽傷を負うような大事件で、これほど一般の新聞の扱いが小さいことだけではなかった。解放新聞の独特の言い回しや相手を貶める用語を使った記事は、当時私が聞いていた北朝鮮の放送のような気味悪さがあった(議員○○のように、敬称と名前を逆転させたり、日本共産党を日共と略する部分など。赤旗にもそういう要素は多分にあったが、解放新聞の方が圧倒的に勝っていたように思う)。私が同和教育、さらには同和問題全般に決定的な嫌悪感を感じるようになるには十分な出来事だった。

    部落差別と民族差別

    保護者向けの研修で配られた資料には、さらに続きがあり、「先住民族と差別」という文章が載っています。出展は、鳥取県部落解放研究所編「日本の聖と賎」となっています。
    この文章は、部落の異民族紀元論から始まります。それに対する反論として「いや、部落の先祖も同じ日本人だ」と言うのでは弱く、日本人は複合民族ということを考慮しなければならない、ということから人種差別への問題と移ってゆきます。以下、一部を引用します。

    昨年は、世界人権宣言四十五周年でしたが、この『世界人権宣言』のなかに「人間は皮膚の色によって差別されてはならない」ということが明記されていますが、これはなぜかと言いますと、皮膚の色というのは、紫外線が強いか弱いか、単にこれに関わるだけであります。紫外線が強いところでは皮膚の表皮にメラニン色素ができ、メラニン色素が多いほど色が黒いというだけのことです。人間の本体には何の変わりもありません。

    確かに、同和地区の起源が異民族であるといいった説は誤りです。そして、皮膚の色の違いは人間を差別する理由にはなりません。実にまっとうな意見と言えます、しかし、段々とおかしくなってきます。

    私は黒人の友人もいますが、同じ環境でスタートして同じ教育を受けたのならば、黒人の方がある意味では白人よりも優秀ではないかと思います。いずれにせよ、どの人種でも人間としての本質には根本的な違いはありません。

    見ての通り、「黒人の方がある意味白人よりも優秀」と言ったすぐ後に「どの人種でも人間としての本質には根本的な違いはありません」と言っているので、支離滅裂です。
    そして、さらにメラニン色素の話をした後、

    皮膚の色の差というものはこういった原理に基づくものですが、そういうことすら科学的に知らない人は、黒人が劣っているなどとすぐ差別する。黒人が本来的に劣っているわけではありません。

    と続きます。
    はっきり言えば、これは誤りです。科学的に知っているかどうかと、黒人を劣っていると見ることは何の関係もありません。
    鳥取のような片田舎では、黒人や白人を見かけること自体が珍しいです。たまに街角で黒人を見かけるとぎょっとしたり、学校でカナダ人の英語教師を指して「外人はあまり風呂はいらないから臭え」などと言ったりする輩がおりましたが、そういうのは黒人を見下すのとは全く別次元の問題です。よい意味でも、悪い意味でも、黒人と白人共に見慣れないよそ者として平等に見られるでしょう。
    さらに、この文章ではエスキモー(イヌイット)、インディアン(ネイティブ・アメリカン)のような先住民族が被差別民族として挙げられています。そして、北海道の先住民族であるアイヌについても触れられています。
    私は平成16年度鳥取県人権意識調査について、鳥取にアイヌに対する差別があると答えた人が11.7%もいると突っ込みました。
    詳しくは、「人々の意識」にアイヌに対する差別や偏見があると答えたのが11.7%で、「社会のしくみ」にアイヌに対する差別や偏見があると答えたのが6.5%です。これは、自由記入ではなく、あらかじめ提示された項目に、複数○を付ける形式のものです(この項目に該当する人は被差別者、ということなので、そもそもこんな調査自体が差別的な気もしますが…)。
    この調査をされた県庁の方には、研修会等への参加経験とクロス集計することを希望します。できれば、次回の調査では黒人やイヌイットやネイティブアメリカンも「被差別者」として項目に加えてください。どの民族は被差別者だと最初から決め付けたような研修がどのような結果を生むか、数字として現れてくると思います。

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    常に差別の存在を前提とする人権研修

    手元に「部落差別を温存する意識」という見出しがふってある資料があります。これは、1997年に保護者向けの研修で配布された資料です。以下、書き出しの部分を引用します。

    部落差別は今日の日本社会における深刻で重大な社会問題であり、人権問題として存在しています。それにもかかわらず、部落差別の現実を知らなかったり、知っていてもかかわりを避けようという態度をとったり、あるいは部落差別は過去の問題で、今はもう存在しないという考え方をする人たちがいます。

    この部分は、鳥取で行われている人権研修、同和教育がどのようなものかをよく表しています。私も、特に中学校の頃の同和教育では、「差別を見逃してはいけない」「差別はまだあるんだ」「それを知らないことは罪である」といった教え方をされました。たとえ部落差別と無関係に生活することを望んでも、それは許されないわけです。
    さらに、この資料には1965年に内閣総理大臣に出された同和対策審議会答申が引用されています。

    (前半略)さらに、また、精神、文化の分野でも昔ながらの迷信、非合理な偏見、前時代的な意識などが根強く生き残っており、特異の精神風土と民族的性格を形成させている。
    このようなわが国の社会、経済、文化体制こそ、同和問題を存続させ、部落差別を支えている歴史的社会的根拠である。

    そして、

    日常の生活の中に、私たちが当たり前のように思っている意識の中に、差別を温存するものがあるとしたら、それがどこにあるのか、部落差別と結びつく日本人の生活感覚、その中にひそむ差別意識について考えてみましょう。そして、その課題を1つ1つ解消していかなければ、本当に同和問題を解決し、すべての人々の人権が尊重される民主社会になったとはいえないのです。

    と続きます。
    同和問題に関する研修というのが、単に行為だけでなく、人間の意識にまで踏み込むものであることが分かります。「同和対策審議会答申」を教条主義的なまでに適用した結果、件の「北枕を気にするのは差別につながる」という教師の指導に行き着くわけです。
    私は、この研修内容には3つの問題点があると思います。
    1つめは、差別を知らないこと、関わりを避けることを、あるいは差別が存在しないと主張することを頭から否定していることです。実際に同和教育では、差別の存在に気づかないことは罪悪だといった雰囲気が蔓延していました。これでは、いざ本当に差別がなくなったとしても、誰も「差別はなくなった」と言い出すことができません。
    2つめは、非合理的な迷信や文化、慣習を何でも否定しようとする点です。例えば「北枕」は確かに非合理的な迷信ですが、だれもそれで被害を被ったりはしません。むしろ、たまたま集団に存在する共通意識を、実害のあるなしに関わらず1つ1つ潰してゆくことの方が非合理的に思えます。
    文化や、慣習といったものは、元々非合理的なものです。突き詰めてゆけば、葬式も結婚式も必要ないでしょう。実際に、鳥取県の人権局は、その方向へ向かって進もうとしているように見えます。
    3つめは、差別行為のみならず、意識まで問題とし、それを解決するのが民主社会だと主張している点です。しかし、ある人の持っている意識が差別に結びつくか、ということが問題にされて、差別解消の名のもとにその人の意識が制限されることは民主社会に反するものです。
    例えば、同和地区への過剰な利益誘導を批判することが、ねたみ意識だとか、逆差別意識だといって非難されてきました。しかし、事実、京都では同和団体による補助金の詐取が表面化しています。事実を事実として指摘することがはばかられるような状態を作った結果がこれです。
    それ以前に、全ての人が不合理な迷信を捨て、意識からも差別がなくなった世の中が来ることがありえるでしょうか?そして、その目的を達するまで、こういった人権研修を続けるつもりなのでしょうか?

    いかに生徒を説得するか

    高校時代のメモとは別に、少し面白いエピソードを思い出したので、今回はちょっと雑談モードで書きます。
    人間の心に入り込むのはそう簡単ではありません。高校になると、小学校や中学校のような同和教育は通用しなくなります。特に、私の通ってた高校は、やや不真面目な生徒が集まっているようなところで、私のクラスはさらにその掃き溜めだったため(同窓生の方には失礼…)なおさらです。わざと差別発言をして、全校集会だとクラスメートがはやしたてるので、授業は成り立たなくなります。
    そこで、教師は工夫をこらします。例えば、ゲームをします。どんなゲームなのかメモを残していなかったので忘れてしまったのが残念ですが、ある島によいゴリラと悪いゴリラがいて、よいゴリラが悪いゴリラを巻き込んでいくというゲームだったと思います。それでも、やっぱり授業はめちゃくちゃでしたが。
    高校の同和教育で配られたプリントに、阿部公房のこのような短編小説が載っていました。

    昔は、ニワトリたちもまだ、自由だった。自由ではあったが、しかし原始的でもあった。たえずネコやイタチの危険におびえ、しばしばエサをさがしに遠征したりしなければならなかった。ある日そこに人間がやってきて、しっかりした金網つきの家をたててやろうと申し出た。むろんニワトリたちは本能的に警戒した。すると人間は笑って言った。見なさい、私にはネコのようなツメもなければ、イタチのようなキバもない。こんなに平和的な私を恐れるなど、まったく理屈にあわないことだ。そう言われてみると、たしかにそのとおりである。決心しかねて、迷っているあいだに、人間はどんどんニワトリ小屋をたててしまった。ドアにはカギがかかっていた。
    いちいち人間の手をかりなくては、出入りも自由にはできないのだ。こんなところにはとても住めないとニワトリたちがいうのを聞いて、人間は笑って答えた。諸君が自由にあけられるようなドアなら、ネコにだって自由にあけられることだろう。なにも危険な外に、わざわざ出ていく必要もあるまい。エサのことなら私が毎日はこんできて、エサ箱をいつもいっぱいにしておいてあげることにしよう。
    一羽のニワトリが首をかしげ、どうも話がうますぎる、人間はわれわれの卵を盗み、殺して肉屋に売るつもりではないだろうか? とんでもない、と人間は強い調子で答えた。私の誠意を信じてほしい。それよりも、そういう君こそ、ネコから金をもらったスパイではないのかね。
    これはニワトリたちの頭には少々むずかしすぎる問題だった。スパイの疑いをうけたニワトリは、そうであることが立証できないように、そうでないこともまた立証できなかったので、とうとう仲間はずれにされてしまった。けっきょく、人間があれほどいうのだから、一応は受け入れてみよう、もし工合がわるければ話し合いで改めていけばよいという、良識派が勝ちをしめ、ニワトリたちは自らオリの中にはいっていったのである。
    その後のことは、もうだれもが知っているとおりのことだ。

    PTAで同和教育の世話役をやっていた、母親は、早速このプリントのネタをパクっていました。
    おそらく、まわりに流されずに、同和教育で教えられたことを貫こうという意味でこの話をしたのだと思います。
    そのすぐ後に、おそらく偶然だと思いますが、英語の授業の教材で出されたのが、なんとジョージ・オーウェルの「動物農場」です。ニワトリさんを一般庶民、ブタさんを解放同盟に置き換えると、笑いがこみ上げてきます。
    他にも、23分間の奇跡のような、現代文学の世界をリアルで体験できるのが、鳥取の同和教育です。
    2冊とも、昔受けた同和教育にしっくり行かなかった鳥取の方々にぜひともお勧めしたい名作です。

    次第に湧き始めた疑問

    私が中学校の頃の「いい仕事」のエピソードが強烈に記憶に残っているのは、担任教師が何かとこの言葉に反応するからだった。うっかりこの言葉を口にすると、いい仕事ってなんだ、と意味不明な吊るし上げをくらった。「いい嫁さん」も同様だ。それから印象的だったのは、PTAの会報に「いい大学にはいっていい会社にはいってほしいものです」と書かれていたことについて、わざわざ弁解が書かれた紙切れが挟み込んであったことだった。
    教師は仕事、人間、学歴について価値判断することに異常に敏感で、何かにつけて入り込んでくる。それが、同和教育の影響であることは明らかだった。
    中学校では、狭山事件が取り上げられたことがあった。警察は、単なる見込みで被差別部落に対して「差別捜査」を行い、被差別部落の一人の青年を騙して、逮捕したという話であった。
    「結局、警察は騙して、石川さんにうそを言わせたわけだ。そして今、たくさんの人が石川さんを釈放させようと、運動しています。それでも、警察は誤りを認めていません。」
    O先生は言った。
    私も最初は腹が立った。ぬれぎぬは僕も経験があるので一番許せないことだ。しかもこれだけたくさんの人が抗議しているのに認めない。警察なんて信用できない。
    感想を書けと言われた時、私は怒りにかられ鉛筆を取った。
    しかし、書いているうちに、私はふと不審に思うことがあった。警察も公の機関である。学校も公の機関だ。どうして学校でそこまで警察の悪口を言うのか。そもそも「警察は信頼して従いなさい」と今まで教えてきたのは学校だ。それに、資
    料を見ても、やけに古くさいし、昭和30年だの35年だの、古い日付が多い。それに、それほどぬれぎぬとはっきりしているなら、なぜ未だに釈放されないのか。
    私は、そのことについても書こうと思ったが、先生が怖かったので消しゴムで消した。
    中学三年生の頃、私にとって少し転機となる出来事があった。鳥取県のある機関が主催したディベート大会に参加したことだ。ディベートとは、あるテーマについて2つに分かれて討論し、どちらがより多くの観客を説得できるかを競う、一種の討論ゲームだ。相手に上手く反論するためには、できる限り知識を持っているほうが有利だ。
    私はそこで、図書館を使うことを教えられた。幸い鳥取の県立図書館は当時から図書検索のシステムがある、非常に優良な図書館だった。特に読書家でもなかったが、古い本や、珍しい本をに触れるのは好きだったので、私はすぐに夢中になった。
    そして、ディベート大会の後のある日、私は一人で図書館に行き、図書検索用の端末で「同和」というキーワードで検索をはじめた。

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