常に差別の存在を前提とする人権研修

手元に「部落差別を温存する意識」という見出しがふってある資料があります。これは、1997年に保護者向けの研修で配布された資料です。以下、書き出しの部分を引用します。

部落差別は今日の日本社会における深刻で重大な社会問題であり、人権問題として存在しています。それにもかかわらず、部落差別の現実を知らなかったり、知っていてもかかわりを避けようという態度をとったり、あるいは部落差別は過去の問題で、今はもう存在しないという考え方をする人たちがいます。

この部分は、鳥取で行われている人権研修、同和教育がどのようなものかをよく表しています。私も、特に中学校の頃の同和教育では、「差別を見逃してはいけない」「差別はまだあるんだ」「それを知らないことは罪である」といった教え方をされました。たとえ部落差別と無関係に生活することを望んでも、それは許されないわけです。
さらに、この資料には1965年に内閣総理大臣に出された同和対策審議会答申が引用されています。

(前半略)さらに、また、精神、文化の分野でも昔ながらの迷信、非合理な偏見、前時代的な意識などが根強く生き残っており、特異の精神風土と民族的性格を形成させている。
このようなわが国の社会、経済、文化体制こそ、同和問題を存続させ、部落差別を支えている歴史的社会的根拠である。

そして、

日常の生活の中に、私たちが当たり前のように思っている意識の中に、差別を温存するものがあるとしたら、それがどこにあるのか、部落差別と結びつく日本人の生活感覚、その中にひそむ差別意識について考えてみましょう。そして、その課題を1つ1つ解消していかなければ、本当に同和問題を解決し、すべての人々の人権が尊重される民主社会になったとはいえないのです。

と続きます。
同和問題に関する研修というのが、単に行為だけでなく、人間の意識にまで踏み込むものであることが分かります。「同和対策審議会答申」を教条主義的なまでに適用した結果、件の「北枕を気にするのは差別につながる」という教師の指導に行き着くわけです。
私は、この研修内容には3つの問題点があると思います。
1つめは、差別を知らないこと、関わりを避けることを、あるいは差別が存在しないと主張することを頭から否定していることです。実際に同和教育では、差別の存在に気づかないことは罪悪だといった雰囲気が蔓延していました。これでは、いざ本当に差別がなくなったとしても、誰も「差別はなくなった」と言い出すことができません。
2つめは、非合理的な迷信や文化、慣習を何でも否定しようとする点です。例えば「北枕」は確かに非合理的な迷信ですが、だれもそれで被害を被ったりはしません。むしろ、たまたま集団に存在する共通意識を、実害のあるなしに関わらず1つ1つ潰してゆくことの方が非合理的に思えます。
文化や、慣習といったものは、元々非合理的なものです。突き詰めてゆけば、葬式も結婚式も必要ないでしょう。実際に、鳥取県の人権局は、その方向へ向かって進もうとしているように見えます。
3つめは、差別行為のみならず、意識まで問題とし、それを解決するのが民主社会だと主張している点です。しかし、ある人の持っている意識が差別に結びつくか、ということが問題にされて、差別解消の名のもとにその人の意識が制限されることは民主社会に反するものです。
例えば、同和地区への過剰な利益誘導を批判することが、ねたみ意識だとか、逆差別意識だといって非難されてきました。しかし、事実、京都では同和団体による補助金の詐取が表面化しています。事実を事実として指摘することがはばかられるような状態を作った結果がこれです。
それ以前に、全ての人が不合理な迷信を捨て、意識からも差別がなくなった世の中が来ることがありえるでしょうか?そして、その目的を達するまで、こういった人権研修を続けるつもりなのでしょうか?

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