同和教育に疑念を抱くとき

中学卒業間近の頃、私が図書館で手に取ったのは「もうやめへんか『同和』」という本だった。正直、同和教育を「くどい」と思いつつも、それを正直に言えない状況で、このような題名の本は衝撃的だった。
今となっては内容はあまり覚えていないが、いつまでも同和地区に特別な措置を続けるのはやめて、差別はなくなったと宣言し、同和地区の存在自体をなくしてしまおうという内容だった。今まで差別を見逃してはいけない、差別がないと言うのは間違いだとさんざん教えられてきた私には、とても衝撃的な内容であった。
高校に入ってからは、あまり同和教育はなかった。時々啓発映画を見せられたり、寒い授業をするくらいだった。その反面、私が最も同和問題に関心を持っていた時期であった。
私は図書館に行き、同和問題関連の本を調べた。そして、今学校で行われている同和教育が全て「部落解放同盟」の主張と一致していること、そして、「全国部落解放運動連合会」(全解連)が真っ向からその主張を批判していることを知った。そして、同和問題への過剰な反応により、「言葉狩り」といった問題が起きていることや、新聞やテレビでほとんど同和問題に触れることができない現実を知った。こういった事実は学校の同和教育では全く語られなかった。つまり、世の中には多種多様な意見があるにも関わらず、特定の意見だけを取り上げて、それ以外を隠していたのだ。
当時、私は短波ラジオで北朝鮮の放送を聞くという変な趣味があった(鳥取は日本海側なので朝鮮半島からの電波がよく受信できる)。それから、戦時中のことが書かれた本を読むのが好きだったりした。だから、北朝鮮の思想教育や、中国やソ連の捕虜収容所で行われた洗脳教育のことは、よく知っていた。だから余計に気味の悪いものを感じた。
私は、高校卒業間近、「行政に特定の団体が入り込んで、県民を洗脳して、利権を漁っている!」と確信したと書いた。そのきっかけは、大阪府立図書館で、同和問題に興味を持つ人には有名な「八鹿高校事件」を調べたことである。
とある用事で大阪に行ったとき、大阪府立図書館に立ち寄った。目的は最初から、八鹿高校事件当時の1974年11月22日に何があったのか、調べるためだった。私は当時の読売新聞、部落解放同盟の機関紙である解放新聞、そして全解連と共に解放同盟と対立していた共産党の赤旗を読んだ。私が見たのは、社会面のすみで少しだけ事件を報じた読売新聞、これでもかと対立する共産党を批判する解放新聞、そして、でかでかと事の詳細を報じて、連日のように解放同盟を批判する赤旗だった。
私が気味の悪いものを感じたのは、48名が監禁・暴行され重軽傷を負うような大事件で、これほど一般の新聞の扱いが小さいことだけではなかった。解放新聞の独特の言い回しや相手を貶める用語を使った記事は、当時私が聞いていた北朝鮮の放送のような気味悪さがあった(議員○○のように、敬称と名前を逆転させたり、日本共産党を日共と略する部分など。赤旗にもそういう要素は多分にあったが、解放新聞の方が圧倒的に勝っていたように思う)。私が同和教育、さらには同和問題全般に決定的な嫌悪感を感じるようになるには十分な出来事だった。

いかに生徒を説得するか

高校時代のメモとは別に、少し面白いエピソードを思い出したので、今回はちょっと雑談モードで書きます。
人間の心に入り込むのはそう簡単ではありません。高校になると、小学校や中学校のような同和教育は通用しなくなります。特に、私の通ってた高校は、やや不真面目な生徒が集まっているようなところで、私のクラスはさらにその掃き溜めだったため(同窓生の方には失礼…)なおさらです。わざと差別発言をして、全校集会だとクラスメートがはやしたてるので、授業は成り立たなくなります。
そこで、教師は工夫をこらします。例えば、ゲームをします。どんなゲームなのかメモを残していなかったので忘れてしまったのが残念ですが、ある島によいゴリラと悪いゴリラがいて、よいゴリラが悪いゴリラを巻き込んでいくというゲームだったと思います。それでも、やっぱり授業はめちゃくちゃでしたが。
高校の同和教育で配られたプリントに、阿部公房のこのような短編小説が載っていました。

昔は、ニワトリたちもまだ、自由だった。自由ではあったが、しかし原始的でもあった。たえずネコやイタチの危険におびえ、しばしばエサをさがしに遠征したりしなければならなかった。ある日そこに人間がやってきて、しっかりした金網つきの家をたててやろうと申し出た。むろんニワトリたちは本能的に警戒した。すると人間は笑って言った。見なさい、私にはネコのようなツメもなければ、イタチのようなキバもない。こんなに平和的な私を恐れるなど、まったく理屈にあわないことだ。そう言われてみると、たしかにそのとおりである。決心しかねて、迷っているあいだに、人間はどんどんニワトリ小屋をたててしまった。ドアにはカギがかかっていた。
いちいち人間の手をかりなくては、出入りも自由にはできないのだ。こんなところにはとても住めないとニワトリたちがいうのを聞いて、人間は笑って答えた。諸君が自由にあけられるようなドアなら、ネコにだって自由にあけられることだろう。なにも危険な外に、わざわざ出ていく必要もあるまい。エサのことなら私が毎日はこんできて、エサ箱をいつもいっぱいにしておいてあげることにしよう。
一羽のニワトリが首をかしげ、どうも話がうますぎる、人間はわれわれの卵を盗み、殺して肉屋に売るつもりではないだろうか? とんでもない、と人間は強い調子で答えた。私の誠意を信じてほしい。それよりも、そういう君こそ、ネコから金をもらったスパイではないのかね。
これはニワトリたちの頭には少々むずかしすぎる問題だった。スパイの疑いをうけたニワトリは、そうであることが立証できないように、そうでないこともまた立証できなかったので、とうとう仲間はずれにされてしまった。けっきょく、人間があれほどいうのだから、一応は受け入れてみよう、もし工合がわるければ話し合いで改めていけばよいという、良識派が勝ちをしめ、ニワトリたちは自らオリの中にはいっていったのである。
その後のことは、もうだれもが知っているとおりのことだ。

PTAで同和教育の世話役をやっていた、母親は、早速このプリントのネタをパクっていました。
おそらく、まわりに流されずに、同和教育で教えられたことを貫こうという意味でこの話をしたのだと思います。
そのすぐ後に、おそらく偶然だと思いますが、英語の授業の教材で出されたのが、なんとジョージ・オーウェルの「動物農場」です。ニワトリさんを一般庶民、ブタさんを解放同盟に置き換えると、笑いがこみ上げてきます。
他にも、23分間の奇跡のような、現代文学の世界をリアルで体験できるのが、鳥取の同和教育です。
2冊とも、昔受けた同和教育にしっくり行かなかった鳥取の方々にぜひともお勧めしたい名作です。

次第に湧き始めた疑問

私が中学校の頃の「いい仕事」のエピソードが強烈に記憶に残っているのは、担任教師が何かとこの言葉に反応するからだった。うっかりこの言葉を口にすると、いい仕事ってなんだ、と意味不明な吊るし上げをくらった。「いい嫁さん」も同様だ。それから印象的だったのは、PTAの会報に「いい大学にはいっていい会社にはいってほしいものです」と書かれていたことについて、わざわざ弁解が書かれた紙切れが挟み込んであったことだった。
教師は仕事、人間、学歴について価値判断することに異常に敏感で、何かにつけて入り込んでくる。それが、同和教育の影響であることは明らかだった。
中学校では、狭山事件が取り上げられたことがあった。警察は、単なる見込みで被差別部落に対して「差別捜査」を行い、被差別部落の一人の青年を騙して、逮捕したという話であった。
「結局、警察は騙して、石川さんにうそを言わせたわけだ。そして今、たくさんの人が石川さんを釈放させようと、運動しています。それでも、警察は誤りを認めていません。」
O先生は言った。
私も最初は腹が立った。ぬれぎぬは僕も経験があるので一番許せないことだ。しかもこれだけたくさんの人が抗議しているのに認めない。警察なんて信用できない。
感想を書けと言われた時、私は怒りにかられ鉛筆を取った。
しかし、書いているうちに、私はふと不審に思うことがあった。警察も公の機関である。学校も公の機関だ。どうして学校でそこまで警察の悪口を言うのか。そもそも「警察は信頼して従いなさい」と今まで教えてきたのは学校だ。それに、資
料を見ても、やけに古くさいし、昭和30年だの35年だの、古い日付が多い。それに、それほどぬれぎぬとはっきりしているなら、なぜ未だに釈放されないのか。
私は、そのことについても書こうと思ったが、先生が怖かったので消しゴムで消した。
中学三年生の頃、私にとって少し転機となる出来事があった。鳥取県のある機関が主催したディベート大会に参加したことだ。ディベートとは、あるテーマについて2つに分かれて討論し、どちらがより多くの観客を説得できるかを競う、一種の討論ゲームだ。相手に上手く反論するためには、できる限り知識を持っているほうが有利だ。
私はそこで、図書館を使うことを教えられた。幸い鳥取の県立図書館は当時から図書検索のシステムがある、非常に優良な図書館だった。特に読書家でもなかったが、古い本や、珍しい本をに触れるのは好きだったので、私はすぐに夢中になった。
そして、ディベート大会の後のある日、私は一人で図書館に行き、図書検索用の端末で「同和」というキーワードで検索をはじめた。

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被差別部落以外で生まれることは恥ずかしい

中学校最初の同和教育は、私にとって衝撃的な言葉で締めくくられた。
「先生は、被差別部落以外の部落で生まれました。つまり、先生自身、差別するかもしれません。そんな自分が恥ずかしい。」
これは、確かにK先生が言った言葉だ。とても感情的に、顔を紅潮させてこの言葉を発したことを今でもはっきりと覚えている。
小学校時代に話は戻るが、担任の女性教師が同和教育で「もうあなたたちが大人になるころには差別がなくなると信じています。」と泣いたことを思い出した。私は子供の頃、親や教師を含め、常に冷静に努めるのが大人なんだと思っていた。だから、大の大人が声を上げて泣くのを見るのはこれが初めてだった。
私はそのことにむしろ恐怖を感じた。もしも、啓発映画に出てくるような、絵に描いたような差別主義者に彼らが出くわしたなら、殴り合いにでもなるのではないかと、思ったりもした。

言葉尻をとらえ、吊るし上げる

さて、私は小学校の同和教育では、とにかく「差別者は許せない」という方向に持ってゆけばよいことを学んだ。しかし、中学校になれば、要は差別する奴をボロクソに言えばよい、というわけにもいかなかった。
これは、中学校最初の同和教育から数日後、各クラスで行われた同和教育での出来事である。
「さぁ、いい仕事ってなんだろう?」
O先生は授業が始まるなり、何の説明もなしに、いきなり私にそんな質問をしてきた。
「どうって・・もうかる仕事。」
私は答えた。
「じゃあ、もうからん仕事は悪い仕事か?え?」
O先生は大きな声で聞き返した。
「え・・うん。」
私は言葉につまった。さらに、先生が質問をあびせる。
「そうか?他には?」
「楽しい仕事。」
私は素直に思うことを答えた。
「じゃあ楽しくない仕事は悪い仕事か?」
「・・・・」
私は何も言えなかった。なぜこんなにも威圧的な態度で質問されるのか私は訳が分からなかったので、だんだん腹が立ってきた。
「仕事にいい、悪いはないな。問題は、安定しているかどうかだな。」
O先生はそういったが、私にはさっぱり意味が分からなかった。私は黙って座った。
「世の中の仕事は、みんないい仕事です。人の役に立つ!そうだな。」
要するに、いい、悪いとは、高貴か下賎かという意味だったのだ。始めからそう言えばちゃんと褒められるような答えを用意したのに、と思った。
O先生は続けた。
「被差別部落では、建設業とか、鉱業とか、職場の環境が悪かったり、毎日ちゃんと仕事があるとは限らなかったりする仕事に就いている方が多くおられます。」
回りくどいいい方をしているが、それは建設業や工業は悪い仕事ということなのではないか、と内心思ったが、口答えすることはしなかった。
思春期を迎えれば、単なる奇麗事とそうでない事の区別くらいはつくようになってくる。
「道徳に答えはない」「無知は悪いことではない」「自己教育力」「暴力は卑怯だ」「規則は守る」
幼い頃から、教えられたことと、現実とのギャップに疑問を持つようになった。
私ははっきり言ってうそつきだった。だから、作文でも平気でうそがつけた。心にもないことを作文に書いて、それでほめられていた。中学生になってから、だんだんそのことが嫌になってきた。どんなに奇麗な言葉でも、自分の本心に反することは、うそに変わりない。そんなことを考えている矢先に親に作文を頼まれたので、怒って拒否して、けんかになったこともあった。

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文字通りの「特別授業」

中学校の最初の同和教育の風景を、今でもはっきりと思い出すことができる。
それは、5、6時間目の午後の2時間を使って行われた。いや、準備も含めれば、本来は昼休憩の30分も授業のために費やされたことになる。
休憩時間を使い、各自イスを持って隣の教室に行くように指示された。隣の教室の生徒は、机を廊下に運び出す作業をしている。イスだけになった教室に、私たちは背の順に並ばされた。
授業の内容については、午前中のうちにおおまかに聞かされていた。それは小学校より一歩進んで、江戸時代にどうやって差別が始まったのか、社会科で習った士農工商の下の身分の人々とはいったい何だったのか、なぜ、今の被差別部落の人達がその人々の祖先だと分かるのか。ということである。
教室の前にいたのは、私のクラス担任のO先生、隣のクラス担任のS先生、そして今回授業を行うK先生だ。授業が始まる前、教師たちはなにか相談している様子だった。
私ののクラス今日の日直のS君が「起立」と言うと、ざわついていた教室は突然静かになり、いつもと違う雰囲気で授業は始まった。
「さて・・みんなは、小学生の時に部落差別について習ったと思います。」
K先生が話し始めた。O先生はなにやら厳しい顔で、S先生は無表情で後ろに手を組んで立っている。
「部落差別がどのようなものかは、小学校の時に習ったと思います。部落差別の大本には、江戸時代の身分制度というのが関係しています。士、農、工、商、そして、もっと身分の低かった『えた』、『非人』と呼ばれた人達。そういう人が集まって・・というか、集めさせられていたのが、現在言われている、被差別部落というところになります。」
士農工商の下の身分は何というのか、その身分の存在を教わることはあったが、教師の口からその言葉が出たのはこの時が始めてである。もちろん、私は、このときまで『えた』『非人』という言葉を知らなかった。
ざら紙に印刷されたプリントがまわされて来た。それには、江戸時代の一揆の記録や、身分制度についての説明が解説してあった。また、中学生の作文も載っている。その作文には、「徳川幕府がなんぼのもんじゃい」などと書いてあった。
「士農工商という言葉を見ると、士の次に農と来ています。」
そう言ってK先生は黒板に縦書きで「士農工商」と書いた。
「つまり、農民というのは、職人や商人よりも身分が高かったのです。当然といえば当然かも知れません。米を作っている訳ですから、支配者である武士にとっては、とても大事だったわけです。だから、士の次に農と来ている訳です。」
私は感心して授業を聞いていた。
「プリントを見てください。農民がほとんどで、武士はほんのちょっとですね。」
私は手元の資料を見た。円グラフが書いてある。武士は1%ちょっとしかなく、約70%を農民が占めている。
「当時は武士が支配してましたから、たったの1%があとの99%を支配していたことになります。さて、武士は何も作りませんから、農民から税金として米を取っていました。ま、これが年貢ですね。当時の支配者はこんなことを言っています。『農民どもは死なぬように生きぬように。』・・つまり、死なない程度で、贅沢をさせないように年貢を取れということですね。たとえば、資料を見てみると、この辺の農民が昔納めていた年貢の税率が書いてあります。多い時で、50.47%も取っていますね。」
税金っていやだなぁと、私は思った。
「不作だった時も、だいたい半分は必ず年貢として持って行かれるわけです。もちろん、そんなに取られるのはいやですから、農民は度々一揆を起しました。支配者にしてみれば、一揆なんか起されたら困るわけですから、その不満のはけ口として、考えたのがさっき言った、えた、非人と言った身分を作ることだったわけです。1699年にえた仲間申合定書というのが出ています。このころから、差別が強化されてきました。」
手元の資料を見た。「えたは百姓より粗末な衣類をつけよ」「町を歩く時は腰に札をつけよ」「嫁入りは夜中にやれ」といった無意味な戒律が書いてあった。
「えたや、非人には普通の人がいやがるような仕事が与えられました。例えば、牛を殺したりだとか、罪人を拷問するような仕事とか。とにかく、なるべく農民に嫌われるように仕向けたわけですねぇ。実際に、嫌われました。そして、農民はまんまと引っかかり、えたや非人を見て、まだまだ自分はましだと仕事に精を出したわけです。えたや非人の中でも、いろいろあったんでしょうね。非人に、もっと仕事をまじめにやったらえたに格上げしてやるだとか言ったりして。」
そして、明治になっても新平民としてまだ差別が続いたという話が続いた。

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なんでも人権の学校教育

180度ひっくり返った道徳教育

小学校には道徳教育の時間があった。小学校5年生からは、道徳教育の時間がまるまる同和教育に置き換わるのであるが、同和教育は普通の道徳教育とはまったく異なるものだ。それは、単に授業内容が部落差別に関するものになっただけではない。

私は、小学1年生の頃、恩師から言われたことを今でも覚えている。それは、次の2つである。
「道徳の授業が他の授業と違うのは、正解がないことだ。」
「知らないことは悪いことでない。」
しかし、同和教育では、この2つは全く通用しない指導がされる。まず、明らかに正解が最初から決まっている。何が何でも、「差別は許せない」という結論を出さなくてはいけない。そして、知らないことがあれば、教師からののしられるのだ。これは中学時代の話であるが、同和教育の時間に「無知は悪である」と言った教師の言葉をはっきりと覚えている。

小学5年で同和教育が始まってからは、授業でも、日ごろの指導でも、なにかと人権問題がからめられるので、徐々に教師に反感を抱くようになった。もっとも、5年生になってから、たまたま運悪くそういう教師が担任になったのかも知れないが。

例えばこんなことがあった。社会の時間に、奈良の大仏について勉強していたときだった。
「この奈良の大仏を作ったとき、これだけの人が作業に関わりました。どう思いますか。」
「どうって・・・。」
僕は黙ってしまった、そしたら、先生が突然強い調子で言った。
「大仏の外側は金です、例えば、1トンの金って言ったら大体40センチくらいのかたまりです。でも、それだけの金を取るのに、どれだけ働かされたか分からんですか!」
そう言って教師はヒステリックに怒ったが、なぜそんなに怒られるのか、私にはさっぱり分からなかった。

あれも差別、これも差別

同和教育では、身の回りの偏見や差別を見つけて報告することが推奨された。かくいう私も、今から考えれば、どうでもいいことなのであるが、授業であんまり皆が黙っているので少し盛り上げようと適当な報告をしたことがある(旧同和地区の場所を特定するような内容なので、詳細はご勘弁いただきたい)。

それから、これは同和教育が始まる前のことであるが、田舎から都市に人口が移動していることについて、私が「田舎者と馬鹿にされるのが嫌だからじゃないですか?」と言ったら、妙に真剣な顔をされ、気持ち悪いくらいに褒められたことがあった。同和教育では、身の回りの偏見や差別を報告することが推奨されていたらか、「差別を見逃さない態度」とでも思ったんだろう。

また、私は算数のドリルに次のような落書きをしたことがあった。

落書き前              落書き後
100てん--素晴しい     100てん--天才
###########     #############
#### 合格 ###     ### まだ甘い ####
###########     #############
80てん            80てん
###########     #############
### あと少し ##     #### アホ #####
###########     #############
60てん            60てん
###########     #############
## がんばろう ##     ## 助けようがない ##
###########     #############
30てん            30てん
###########     #############
## ざんねん ###     #### 死ね #####
###########     #############
0てん             0てん

私はかなり怒られた。まぁ、誰がどう見ても褒められるようなことではないだろう。そして、教師は次のような行動を取った。
「こんなことは差別につながります。」
「これは差別を残すものだから捨てます。」
そう言うと、落書きしたページを破り捨てた。鬼か悪魔のように教えられてきた「差別者」に自分がされたのである。

私が、同和教育に決定的に反感を抱くようになったのは、これがきっかけだったと思う。

荒れた教室

このころ、私のクラスはかなり荒れ始めていた。休憩時間に、暴れる騒ぐ、刃物で人を傷つける、何か悪口を言われたら差別だ差別だと騒ぐ。そして、教師がやってくると気持ち悪いくらいみんないい子になる。

こういった実態に担任教師が気づいたのは、担任教師がしばらく出張でいなくなり、教育実習生と入れ替わったことがあって、その後に実習生から担任に報告があったからだった。

同和教育をやったからと言って、他人に思いやる子供には育たない。むしろ、いかに教師の前でいい格好をして、いかに要領よくやっていくかということばかりを覚えるようになる。自分も、周囲も、そうであったと思う。

小学校最後の同和教育で、私は映画を見た。大雨が降るとすぐに流されてしまう田んぼを持つ、同和地区の働き者のおじさん、自分の作物のできが悪く、そのおじさんを妬みつつ、土方で稼ぐおっちゃん。そして、誇りを持って仕事をする土木作業員とそれを軽くあしらう金持ちの女が出てくる映画だった。金持ちの女が、はねた泥を拭こうとした建設作業員に向かって「なにするの!あんたたちとは違うんだから!」と言って足蹴にするシーンを今でもはっきり覚えている。

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はじめての同和教育

私が小学校で体験した同和教育は、小学5年生のときの部落民宣言から始められたと記憶している。それ以前にも、教師から部落差別についての話は出ることはあったが、そのために授業の時間をさくことはなかった。
最初の同和教育では、まず教師から水色の紙製のファイルを受け取った。続いて、何枚かのプリントが配られた。そして、ファイルの表紙と背表紙に「同和教育」と書くように言われた。私はこのとき始めて同和教育という言葉を知った。普段とは全く違う授業の雰囲気に、子供心に何か陰謀めいたものを感じたものだった。
プリントには、「人間に光あれ!」というような難しい文章や、「ふるさとをかくすことを…」といった詩や、悩んで自殺したとか、汚い長屋で苦労しているとか、そういった暗い話がたくさん書かれていた。そういった文章を、国語の時間のように順番で読ませられ、その度に感想を求められた。
私は、実のところ、こういう授業は嫌いではなかった。私は少し変わった子供で、戦時中の苦労話や、ワイドショーのような、ドロドロした話が好きだった。誤解を恐れずに不謹慎な言葉を使うならば、他人の不幸は蜜の味といったところか。
しかし、こんな私でも教師から感想を求められることは、だんだんと嫌になってきた。教師が言葉尻をとらえて怒るので、素直に感想を話すことができないのだ。例をあげると、「(部落の人は)かわいそう」という言葉は禁句だった。必ず「(差別をする人は)許せない」といわなければならなかった。
それでも、私は次第に慣れてきた。感想でも作文でも、何でもいいから差別は許せない、差別をなくさなければいけないという方向に話を持っていけば、無条件に教師はほめてくれるからだ。あとは、「差別される人がかわいそう」など、NGワードを除外してゆけばよい。こういったところは要領よくやったので、「将来が楽しみだ。」とまで言われたりもした。
一方、そういったことが要領よくできない子は悪い子だ。作文の苦手な子は、休憩時間の間もずっと机に向かっていて、放課後も居残りさせられていた。
私は教師からほめられてはいたが、人権になるとなぜかヒステリックになる教師に対して、次第に憎悪が芽生えるようになってゆく。

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なぜこのサイトを作ったか

私が鳥取の同和問題に興味を持つ…というよりは、疑問を感じ始めたのは高校生の頃です。そして、高校卒業間近、「行政に特定の団体が入り込んで、県民を洗脳して、利権を漁っている!」そう確信するようになります。
正義感というよりは、単なる恐いもの見たさがありました。いずれ、この問題は表ざたにされるだろうと直感した私は、故郷を後にする前、学校で受けた同和教育や研修の内容を書きとめ、授業などで配布された資料を、手元にある分だけ集めてカバンにしまいました。これが、1997年のことです。
そろそろ潮時だな、と感じたので、当時のメモや資料をもとに、このサイトを作成しています。

同和地区出身児童のカミングアウト

※昔書いたメモを元に構成しています。鳥取では、旧同和地区に限らず、部落という言葉を集落という意味で普通に使うということに注意して読んでください。
小学5年生のある日の朝、5時間目の道徳の時間は、道徳の特別授業をするということを担任教師が言った。とても大事な話だというので、何なのだろうと、私は少し期待していた。
休憩時間、クラスの友達の間でいろいろとうわさが流れた。今日の授業というのは、「部落差別」についてのことらしい。私は部落差別という言葉は4年生のときに習ったことがあるので、少しは知っていた。しかし、噂では、今回の授業は身近にある部落のことらしい。そして、A部落とB部落がその部落だということを、ちらっと友達から聞いた。それを知った私は、早速仲のよかったA部落の友達に何の事か聞いてみた。すると、なにやら深刻な顔をして、「学習会」と関係があることを言っただけで、それ以上詳しくは教えてくれなかった。
B部落について私はよく知らなかったが、A部落の友達がよく、「今日は学習会があるから遊べない」とか、「あー今日学習会かぁ、たいぎい(面倒くさい)なぁ」と言っているのをよく耳にしていた。学習会って言うくらいだから、学習塾みたいなものだと私は思っていた。でも、A部落以外の友達で学習会に入っている人はいなかった。学習会のお陰かは知らないけど、A部落の友達は難しい言葉をよく知っていた。
結局、私には「部落差別」も「学習会」も何のこと、授業が始まるまで分からずじまいだった。
昼休憩のとき、A部落とB部落の友達がいつのまにかいなくなっていた。そして、授業開始の時間が来ると、担任教師が入ってきた。なにやら厳しい顔をしていた。続いて、A部落とB部落の友達が並んで入ってきた。みんな、手に模造紙を持っている。続いて、担任教師が日直に合図して、いつも通りの授業開始の起立、礼をした。
そして、担任教師は穏やかな声で話し始めた。それは次のような内容だった。
「みんなは、去年、部落差別というのを勉強したと思います。実は、この近くにも、そのような、差別されている部落があります。もう知っている人もいるかもしれませんが、(小さな声で)A部落とB部落です。みんなは、このA部落とB部落の友達が、学習会というのを度々行っているのを知っていると思います。この学習会では、この部落差別について勉強してきました。今日は、その勉強してきた成果を発表してもらおうと思います。」
A部落と、B部落の友達が学習会をしていたのは「部落差別」について勉強するためだったということをこの時知った。ただ、それを秘密にしていたことが腑に落ちなかった。
「部落」の友達が前にずらりと並んだ。もちろんさっき休憩時間に話した友達もいる。みんな緊張している様子だった。
「これから、部落差別についての発表をします。」
1人が高い声で言った。先生が拍手したので、私も拍手した。そして、もう一人が模造紙を広げた。
「これは、各部落の間での結婚の数です。細い線は1組から3組、太い線は3組以上です。部落内での結婚が多い部落は、赤線で囲ってあります。」
私はその図を見て驚いた。A部落とB部落は赤々と囲ってあり、A部落とB部落の間には太い線が引いてある。それ以外の部落は細い線や太い線で網の目のように結び付いているが、二つの部落だけ孤立していて、A部落から一本だけ細い線が他の部落に伸びているだけだ。
発表は続けられた。
「このように、A部落とB部落は孤立していて、明らかに結婚差別があることが分かります。また・・・。」
そして、担任教師が補足して説明した。
「これから分かるように、身近にも結婚する上で差別があることが分かります。実際に、部落の人だという理由で結婚を断わられて、とうとう自殺した人もいます。」
私はショックを覚えた。それは部落の友達をかわいそうに思ったからではなく、何よりも私は、自分の部落の大人達が、差別者だったと知って驚いた。
「これは、被差別部落内と被差別部落外での高校進学率の変化です。このように、30年ほど前では、かなりの差がありましたが、今はほとんど同じになっています。しかし、被差別部落内の方が少し低くなっています。」
高校進学率のグラフが出た。これは、だいぶよくなってきていたので、私は少し安心した。
この後も、発表は続いたが、難しくて(というよりは、発表する友達の声が小さくて)私には分からなかった。
「これで、発表を終わります。」
と、部落の友達は礼をした。ここまで、時間にして30分程度だった。
発表が終わると、静かになった。すすりなく女の子もいた。
そして、担任教師はこう言った。
「はい、このように、あなた達の身近にも、部落差別というものはあります。今日勉強したことは、とても大事なことですから、家の人とも話しあってみて下さい。もしかしたら、おじいさんとか、おばあさんとか、よく知っとんさると思います。もし、おじいさんやおばあさんが差別するような事を言ったら。『おじいさん、そんなことはいけんで。』『おばあさん、それは間違っとるで。』と、勇気を出して言って下さい。それから、今日聞いたことは、下級生とかには、言わないで下さい。」
担任教師は続けた。
「それでは、今日のことについて、それぞれ感想を言ってみてください。」
みんな黙った。私も黙った。いきなり感想と言われても、なかなか思いつかない。だいいち、言い出す勇気がない。
しかし、しばらくすると一人の女子が立ち上がった。
「なぜ、こんな差別があるのか不思議でした。ひどいと思います。」
こんな時、女の子は積極的だ。それから、次々と手を上げてみんなが感想を言
い始めた。
「かわいそうだとおもいました。」
ある男子の発言だった。しかし、担任教師はこう言った、
「かわいそう、それはちょっと違いますね。悪いのは差別する人なんですから。」
さっきの男子は黙って座った。
「差別をする人が許せないと思いました。」
ある女子の発言である。
「そうですね、許せませんね。」
教師が言った。後々、みんなの発言は、この「差別者は許せない」というのが殆どだった。そして、私の番が来た。
「今までも、A部落に行っても、別に何も思わなかったのに、差別する人は変だと思いました。」
とりあえず、それがその時の私の感想だった。
そして結末。
「これで、もう差別はなくなってくれると信じてます。」
そう言って担任教師は泣いた。女子の殆ど全員と、A部落やB部落の友達が泣いていた。私は涙もろい性格だと思っていたが、この時は全く涙が出なかった。内心「ドラマみたいだすごい!」と思っていた。

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鳥取ループ

★驚異の”差別”生産システム「鳥取ループ」。★
【同和教育で差別の存在を教える。】

県東部の小学校では、同和地区の子供がクラス全員の前で自分たちが同和地区出身であると発表する特別授業がある。
また、高校生に就職差別(と言っても、面接で父親の職業を聞く、愛読書を尋ねるのは差別だ、といった内容)を報告するよう奨励している。
これらが事実であることは鳥取県の人権教育課に電凸して確認済み。
また、学校の同和教育で、「差別は存在します、差別を見逃してはいけません。」と繰り返し教えられている。身近な差別の報告が小学生にも奨励されている。
70年前の高松高裁の判決を引き合いに出し、司法さえも結婚差別をすると教えられる。
詳細は:
http://kanko.pref.tottori.jp/system/kanko/bbssystem/bbs.cgi?panel=detail&NO=1109&user=season

【差別はありますか?とアンケートで聞く。】

上記のような教育、研修が行われているので、当然、「差別はある」と答えざるをえない。
「ない」ことの証明は『悪魔の証明』といって非常に困難。

【差別が「ある」ので同和教育を続ける。】

http://db.pref.tottori.jp/jinkenhp.nsf/92d44112a1dc167249256be7004341d2/b7897a32db9d53dd49256d09002162f8?OpenDocument
これが、鳥取県人権局の調査資料である。
鳥取県で報告された差別事象は、5年間で75件、年間だと15件たらずであり、ほとんどは落書きや、
学校での生徒の悪ふざけによる暴言である(誰が同和地区だ、ということが当の学校で教えられていることに注意)。
結婚差別、就職差別のような深刻な事例は1件もない。
にもかかわらず、アンケート(意識調査)で差別が存在すると答える人がいる、ということを根拠に未だに根強い差別があるという結論が導き出されている。
しかし、その意識調査の実態というのは、前に述べたとおりである。
このため、実態として差別がなくなったとしても、差別が存在すると判断され続け、税金を投入して各種同和教育、研修、意識調査を含む同和対策が継続される。

∞以下、永久ループ。
以上のような一連のサイクルが出来上がっているので、条例があってもなくても差別はなくならない。