同和対策審議会答申は、昭和44年の同和対策事業特別措置法制定の4年前に出されました。答申はその前文で、同和問題の解決は「国の責務であり、同時に国民的課題である」と述べていました。
それゆえに同和対策事業推進の根拠とされ、行政闘争に大いに活用されました。各地の自治体の交渉の現場では「同対審答申も知らないのか!」と役人に食って掛かる場面が度々見られたと言います。また、教育の現場でも「国民的課題である」というフレーズが叩きこまれ、一般国民も同和対策事業に協力すべき根拠とされてきました。
ただ、実際のところ同対審答申は内閣府の一審議会の提言に過ぎないもので、国会が議決したものではなく、法的拘束力は何もありません。答申の提出先は内閣総理大臣なので、地方自治体や一般国民には何の関係もありません。それなのに、金科玉条のように扱われました。これは同和に限らないことなのですが、審議会の答申というのはその内容が都合が良ければ、あたかも錦の御旗のように、権威に弱く無知な人々を従わせるよい道具となる一方で、都合が悪ければ、拘束力はないからと足蹴にされる程度のものです。
しかし、現実には「同和」と名前がつくような部署がある市役所等では、未だに同対審答申が影響を持ち続けています。
そんな同対審答申ですが、よく知られているのは実は抜粋で、その完全版を読んだことがある人はほとんどいないのではないかと思います。以下の文書は、部落問題研究所が製本して会員に配った同対審答申です。付属資料も含めた完全版です。
同和対策審議会答申(附属書類全文)昭和40年8月11日.pdf
注目すべきは108ページ以降で、「同和地区精密調査報告」として同和地区の実名を出して、各地区の状況を解説しています。さらに332ページ以降には岡山県内の同和地区名が列挙されています。
この資料からは「寝た子を起こすな」という考えがあった一方で、同和事業の実施を求めるにあたって、「ここが部落なんだ」と地区名を明らかにしてきた経緯が読み取れます。そして、実際に事業が実施され、そのことにより大いに勢力を拡大した運動団体や、国からの補助により恩恵を受けた自治体が、現在同和地区の場所を必死に隠しているというのは、大きな矛盾です。
ちなみに、部落問題研究所は現在では共産党系、反解放同盟と見られていますが、この答申が出された当時はまだ解放同盟と協力関係にありました。皮肉にも、同対審答申に対する評価が運動団体の中で割れたことが、部落問題研究所と解放同盟の対立、そして解放同盟の分裂の原因になりました。