八鹿高校事件と解放同盟の現在

この事件の刑事裁判では、1990年11月28日に解放同盟側の有罪が確定しています。また、1996年2月8日には民事裁判でも解放同盟側の全面敗訴に終わりました。
八鹿高校事件から30年以上、裁判の結審から10年以上たった今、事件の当事者である解放同盟がどのような見解を持っているかは興味があるところです。このことについて、部落解放同盟鳥取県連に問い合わせました。
Q. 1974年11月の八鹿高校事件について、取材している。
A. 八鹿高校と言えば、兵庫県の八鹿ですよね?もうそんなになりますかね。30年くらいになりますね。
Q. 鳥取県連としては、この事件についてどのような見解を持っているのか?
A. もう前の事件ですが、私は鳥取県連としてコメントできる立場にないです。
Q. 県連としての見解はないということなのか?
A. そういうわけではないですが、これまで文書化して公に出したものはなかったと思います。
ただ、真面目に運動しようということで、高校生が立ち上がったり、地域の人が支援するいう取り組みを教師集団が妨害するといった行為の中でから事件が発生したという風には、私たちは把握している。
Q. 鳥取県の研修などで、八鹿高校事件について触れられることはあるのか?
A. 無いのではないでしょうか。時間的にも30年も前の話ですからね。
Q. 1991年(注:1990年が正しいです、質問時に間違えました)の時点で解放同盟の方が有罪になっているが。
A. 私は確定したのかどうか分かりませんが…
Q. 最高裁で確定ということになっている。
A. そうですか。ただ、部落解放同盟が差別に対して憤りを感じて、差別を許さないと言う形での行動そのものを否定したということは、裁判の記録の中でもたぶん、ないと思います。
ただ、気持ちは分からないでもないが、少し行過ぎたのではないかという判断があって、それがたぶん有罪の根拠になったのではないかと私は思います。
そういった、差別と闘う、具体的には糾弾闘争を裁判所が否定したということではなかったと理解しています。
Q. こういった形の闘争は正当であるということか?
A. いや、時代によっては差別によって泣き寝入りをしている人が大部分で、例えば子どもが学校へ通学する、そういった道中で石を投げられたり差別を受ける、学校に行っても学校の教師からでさえも差別を受けるといった社会状況のときには、おのずと自分の子どもたちを守ろうということで、親がどう思われようと少し激しい闘いというか運動が起きる。
Q. ということは、1974年の頃は、そういった状況があったのか?
A. その時の社会状況が一律にこうだ、ということは言えないと思います。ただ、一般論としては差別が厳しい社会状況の中では、おのずと糾弾闘争も厳しい内容になってくる。今の闘争の形態は、話し合いによって相手の理解を求めるようなそういった糾弾闘争に変わっている。時代背景によって変わってくるので、いちがいに今の時代から見て八鹿高校の闘争がどうだったかということを、時代背景を理解しないで軽はずみに判断するのはどうかと思います。
以上のように、間違いであったと、過去の行動を否定することは避けています。解放同盟は暴力行為に対して正式には謝罪せず、反省もしていないといった指摘は、鳥取県においても例外ではありません。
私は過去の記事でオールロマンス事件のような、50年以上も前の状況を蒸し返すことに疑問を呈しました。八鹿高校事件はより新しい出来事であるだけでなく、不法行為を行った当事者が未だに誤りを認めていないという現実があります。部落問題に関連して、過去に例がないような暴力行為が行われ、それが闇に葬られてゆくことは「部落は恐い」という考えを支えるものではないかと思います。
そういった意味で、教育や研修で米子市民による身元調査差別事件の糾弾のような事例を取り上げながら、八鹿高校事件に触れないと言うのは偏向教育と言えるのではないでしょうか。


ついでに、代ゼミのその後についても聞いてみました。以下はおまけです。
Q. 代々木ゼミナールの確認会について、その後代ゼミの対応はどうなったのか?
A. 代々木ゼミとしては自己批判して、文書で示してきていると聞いている。
Q. 職員に対して職員の研修や啓発を要求したようだが、その後代々木ゼミは実施しているのか?
A. 現段階ではどうなっているのか、私は部署が違うので把握していない。ただ、どのような場合でも差別意識があるのと同時に部落問題ついての無理解からそのような発言が出てくるので、企業にしても学校にしてもゼミにしても、従業員や教員の研修を充実して欲しいということは、いずれの場合も要望として出します。

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