私が中学校の頃の「いい仕事」のエピソードが強烈に記憶に残っているのは、担任教師が何かとこの言葉に反応するからだった。うっかりこの言葉を口にすると、いい仕事ってなんだ、と意味不明な吊るし上げをくらった。「いい嫁さん」も同様だ。それから印象的だったのは、PTAの会報に「いい大学にはいっていい会社にはいってほしいものです」と書かれていたことについて、わざわざ弁解が書かれた紙切れが挟み込んであったことだった。
教師は仕事、人間、学歴について価値判断することに異常に敏感で、何かにつけて入り込んでくる。それが、同和教育の影響であることは明らかだった。
中学校では、狭山事件が取り上げられたことがあった。警察は、単なる見込みで被差別部落に対して「差別捜査」を行い、被差別部落の一人の青年を騙して、逮捕したという話であった。
「結局、警察は騙して、石川さんにうそを言わせたわけだ。そして今、たくさんの人が石川さんを釈放させようと、運動しています。それでも、警察は誤りを認めていません。」
O先生は言った。
私も最初は腹が立った。ぬれぎぬは僕も経験があるので一番許せないことだ。しかもこれだけたくさんの人が抗議しているのに認めない。警察なんて信用できない。
感想を書けと言われた時、私は怒りにかられ鉛筆を取った。
しかし、書いているうちに、私はふと不審に思うことがあった。警察も公の機関である。学校も公の機関だ。どうして学校でそこまで警察の悪口を言うのか。そもそも「警察は信頼して従いなさい」と今まで教えてきたのは学校だ。それに、資
料を見ても、やけに古くさいし、昭和30年だの35年だの、古い日付が多い。それに、それほどぬれぎぬとはっきりしているなら、なぜ未だに釈放されないのか。
私は、そのことについても書こうと思ったが、先生が怖かったので消しゴムで消した。
中学三年生の頃、私にとって少し転機となる出来事があった。鳥取県のある機関が主催したディベート大会に参加したことだ。ディベートとは、あるテーマについて2つに分かれて討論し、どちらがより多くの観客を説得できるかを競う、一種の討論ゲームだ。相手に上手く反論するためには、できる限り知識を持っているほうが有利だ。
私はそこで、図書館を使うことを教えられた。幸い鳥取の県立図書館は当時から図書検索のシステムがある、非常に優良な図書館だった。特に読書家でもなかったが、古い本や、珍しい本をに触れるのは好きだったので、私はすぐに夢中になった。
そして、ディベート大会の後のある日、私は一人で図書館に行き、図書検索用の端末で「同和」というキーワードで検索をはじめた。
高校の頃のメモを元に構成しています。
大学で少し哲学をかじって知ったのですが、「いい」「わるい」には2つの意味合いがあるそうです。
強者の倫理では「いい」ということは強くて、知恵があり、高貴であることであり、「わるい」ということは弱くて、愚かで、下賎であること。弱者の倫理では「いい」とはやさしく、無垢で、禁欲的であること、「わるい」とは厳しく、疑い深く、貪欲であること。
今になって思えば、同和教育や人権教育というものは、強者の倫理を否定する要素が強いのではないかと思います。
部落解放同盟の解放新聞によれば、狭山事件については、当時福岡などで、小学生までが石川さんの無罪を訴えるワッペンをつけて登校することが行われていました。
鳥取県でそこまでやったという話は聞いていません。私が狭山事件を初めて習ったのは、中学校になってからだったと記憶しています。