1996年1月22日の解放新聞より、その要旨。
なお、解放新聞のコピーは高校の同和教育で教師により配られたものです。
「事件」のあらまし
事の発端は1995年4月4日、米子市の女性Aさんが、娘の結婚相手の男性Bさんが部落出身かどうかをBさんの住む大阪市西成区役所に手紙で問い合わせたことである。
部落解放同盟は、1995年11月30日にこの事件に関する糾弾会を行っている。この糾弾会では、Aさんの差別意識を放置してきた米子市行政、米子市長の責任を追及している。
解放同盟が特に問題にしたのは次の点である。
また、AさんはBさん自身から「あいりん地区(西成区の一部)は危険…」という話を聞かされ、あいりん地区は被差別部落ではないかと思い、それがきっかけで身元調査を行った。
米子市行政の対応
糾弾会は、午前中は少人数でAさんに対して、午後からは行政に対して大規模に行われている。
米子市行政側からは森田・米子市長、助役、教育長、全部長ら120人が出席。また、黒見・境港市長も出席。大阪市と西成区の行政関係者も出席している。対して、解放同盟側の出席者は250人である。
森田市長は「事件を通して指摘をうけ、行政責任をあらたにした」「糾明本部を設置する」と発言。黒見市長も市民意識調査を実施し、取り組みを強めることを約束した。
ちなみにこの資料を高校で受け取ったのは1996年2月9日です。なぜ、それほどまで正確に覚えているかと言うと、1996年2月8日に八鹿高校事件で部落解放同盟側の有罪が確定しているからです。私は、その記事を新聞の朝刊で見た日に、この資料を見せられたので、
「(部落解放同盟の)裏の組織が殺しに来る夢をみた」
というAさんの言葉が、本当に差別意識によるものと言えるのか、疑いを持ちました。