中学校の最初の同和教育の風景を、今でもはっきりと思い出すことができる。
それは、5、6時間目の午後の2時間を使って行われた。いや、準備も含めれば、本来は昼休憩の30分も授業のために費やされたことになる。
休憩時間を使い、各自イスを持って隣の教室に行くように指示された。隣の教室の生徒は、机を廊下に運び出す作業をしている。イスだけになった教室に、私たちは背の順に並ばされた。
授業の内容については、午前中のうちにおおまかに聞かされていた。それは小学校より一歩進んで、江戸時代にどうやって差別が始まったのか、社会科で習った士農工商の下の身分の人々とはいったい何だったのか、なぜ、今の被差別部落の人達がその人々の祖先だと分かるのか。ということである。
教室の前にいたのは、私のクラス担任のO先生、隣のクラス担任のS先生、そして今回授業を行うK先生だ。授業が始まる前、教師たちはなにか相談している様子だった。
私ののクラス今日の日直のS君が「起立」と言うと、ざわついていた教室は突然静かになり、いつもと違う雰囲気で授業は始まった。
「さて・・みんなは、小学生の時に部落差別について習ったと思います。」
K先生が話し始めた。O先生はなにやら厳しい顔で、S先生は無表情で後ろに手を組んで立っている。
「部落差別がどのようなものかは、小学校の時に習ったと思います。部落差別の大本には、江戸時代の身分制度というのが関係しています。士、農、工、商、そして、もっと身分の低かった『えた』、『非人』と呼ばれた人達。そういう人が集まって・・というか、集めさせられていたのが、現在言われている、被差別部落というところになります。」
士農工商の下の身分は何というのか、その身分の存在を教わることはあったが、教師の口からその言葉が出たのはこの時が始めてである。もちろん、私は、このときまで『えた』『非人』という言葉を知らなかった。
ざら紙に印刷されたプリントがまわされて来た。それには、江戸時代の一揆の記録や、身分制度についての説明が解説してあった。また、中学生の作文も載っている。その作文には、「徳川幕府がなんぼのもんじゃい」などと書いてあった。
「士農工商という言葉を見ると、士の次に農と来ています。」
そう言ってK先生は黒板に縦書きで「士農工商」と書いた。
「つまり、農民というのは、職人や商人よりも身分が高かったのです。当然といえば当然かも知れません。米を作っている訳ですから、支配者である武士にとっては、とても大事だったわけです。だから、士の次に農と来ている訳です。」
私は感心して授業を聞いていた。
「プリントを見てください。農民がほとんどで、武士はほんのちょっとですね。」
私は手元の資料を見た。円グラフが書いてある。武士は1%ちょっとしかなく、約70%を農民が占めている。
「当時は武士が支配してましたから、たったの1%があとの99%を支配していたことになります。さて、武士は何も作りませんから、農民から税金として米を取っていました。ま、これが年貢ですね。当時の支配者はこんなことを言っています。『農民どもは死なぬように生きぬように。』・・つまり、死なない程度で、贅沢をさせないように年貢を取れということですね。たとえば、資料を見てみると、この辺の農民が昔納めていた年貢の税率が書いてあります。多い時で、50.47%も取っていますね。」
税金っていやだなぁと、私は思った。
「不作だった時も、だいたい半分は必ず年貢として持って行かれるわけです。もちろん、そんなに取られるのはいやですから、農民は度々一揆を起しました。支配者にしてみれば、一揆なんか起されたら困るわけですから、その不満のはけ口として、考えたのがさっき言った、えた、非人と言った身分を作ることだったわけです。1699年にえた仲間申合定書というのが出ています。このころから、差別が強化されてきました。」
手元の資料を見た。「えたは百姓より粗末な衣類をつけよ」「町を歩く時は腰に札をつけよ」「嫁入りは夜中にやれ」といった無意味な戒律が書いてあった。
「えたや、非人には普通の人がいやがるような仕事が与えられました。例えば、牛を殺したりだとか、罪人を拷問するような仕事とか。とにかく、なるべく農民に嫌われるように仕向けたわけですねぇ。実際に、嫌われました。そして、農民はまんまと引っかかり、えたや非人を見て、まだまだ自分はましだと仕事に精を出したわけです。えたや非人の中でも、いろいろあったんでしょうね。非人に、もっと仕事をまじめにやったらえたに格上げしてやるだとか言ったりして。」
そして、明治になっても新平民としてまだ差別が続いたという話が続いた。
高校時代のメモより構成しています。まだまだ話は続きます。
メモには書いてありませんが、確かK先生は当時の同和教育担当主任だったと記憶してます。そろそろ国立国会図書館の出番かな~
「士農工商」について補足ですが、今は農民が職人や商人より身分が高い、といった教え方はされないそうです。理由は単純で、たぶん多くの人が感じていた通り「農工商」の並びは特に上下関係を表すものではなく、実際は平等だったというのが現在では有力な説になっているためです。「農民」という呼び方も「村人」や「百姓」に改められています。実際には農業だけでなく、漁業や林業に従事する人もいたはずなので、当然と言えば当然ですね。
某徳島出身のおばあちゃんから聞いた話では、確かに「新平民」という呼び方はあったそうです。ただ、全国水平社ができてからは、「水平社」という言葉にとって変わられたそうです。学校でも水平社の生徒は特別の扱いをされていたと(よい扱いなのか、悪い扱いなのかは不明ですが)、生々しい話を聞かされたものです。(一時期解放同盟に叩かれた)映画「橋のない川」のような、水平社の生徒が学校で活動する風景は本当にあったんですね~。