最近の身分制度に関する歴史教育の事情

私の小中学生の頃は、身分制度と言えば「士農工商えた非人」と教えられていた時代でした。おそらく、現在の二十代半ばくらいまでは、学校でそのように教えられていたはずです。しかし、最近は江戸時代の民衆史の研究が進むにつれて、かつての教科書の内容のかなりの部分が誤っていたことが分かってきています。
手元に、昭和61年の鳥取県内の小学校高学年向けの同和教育学習資料があります。その中には、おおよそつぎのような記述があります。
・えた、非人は士農工商よりもさらに低い身分に位置づけられていた。
・被差別部落は江戸時代の権力者が自分達に都合のよい政治をするために政策的につくられた。
・農民の年貢に対する不満をそらすらめに、「上見るな、下見てくらせ」という考えで「えた・非人」の身分が作られた。
私も、こういった指導を受けましたが、実は最近ではこのことは歴史的事実としては否定されつつあります。
まず、現在の小学校の教科書では「士農工商」という記述はありません。武士という支配階級の下に一般大衆がいたというのが実態で、例えば農民の下に町民が位置づけられていたわけではないからです。私は中学の頃の同和教育で「農民が武士の次に身分が高いのは、最も数が多かった農民の不満をそらすためだ」と教えられましたが、これは全くの誤りです。なおかつ、農民と言っても農業だけでなく漁業や林業に従事する人もいたはずなので、現在では「百姓(あるいは村人)」といった言い方をされます。同じ理由で「工商」の部分も「町人」と言われます。単に農村生活者と都市生活者という違いだけで、身分に上下があったわけではない、というのが実態をよく表しているようです。
また、現在の教科書では「えた・非人」という身分は「さらに低い身分に位置づけられていた」のではなく「外に存在した」といった言い方がされます。なぜなら、もし「えた・非人」が単に最下層身分であるなら、なぜ穢多頭弾左衛門のような権力者が被差別身分の中に存在したのか説明がつかないためです。弾左衛門は関東の人物ですが、鳥取でも同様に被差別身分の中の有力者というのは存在していました。こういった人物の中には明治になっても有力者であり続け、早くから同和対策事業に貢献していた者もいます。被差別身分と言うと皮革産業や警吏、渡し守ばかりをしていたイメージがありますが、実際は地域で商売のネットワークを作って成功していたり、普段は農民や小作人と同じように暮らしている人々もいました。しかし、多くの被差別身分は明治になってからも被差別身分として隔離される一方で、被差別身分特有の独占産業が自由化されたため、近代化から取り残されるといった結果になってしまいます。
そして、「被差別部落は江戸時代に作られた」という従来の説も崩れかかってきています。一番の矛盾点として、もし江戸時代に作られた制度なら、なぜ被差別部落が当時幕府が存在していた関東ではなく、関西に多いのか説明がつかないためです。実際は、室町時代に皮革などの産業を専門に扱う身分として京都で生まれ、それが民衆の間に徐々に広がっていたものを江戸幕府が制度として追認した、というのが正確なところのようです。

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