鳥取県における同和保育とは?

前回に引き続いて「同和保育」について採り上げます。
同和保育は同和教育同様に、同和地区の低学力問題対策のために始められた、とされています。言わば同和教育を就学前教育にも拡張したものです。同和保育の歴史は同和教育よりも浅く、鳥取県からは1984年に初めて「同和保育の手引き」が発行されています。
しかし、同和教育とは異なり、同和保育の手引書には当初から過激な主張が入っていました。1984年の同和保育の手引きから引用します。

乳幼児の日常生活にも偏見や差別の影響が見られる。保育者自身が差別を見抜く鋭い眼をもたなければならない。子供の生活の中には差別はないというような先入観は捨て、乳幼児の生活の中にある親の生活や部落差別の結果としてのひずみを保育の課題として解消しなければならない。

同和保育といっても、当初から部落差別と戦う子供を育てることを目的とした「解放保育」でした。実際、「同和保育の目指す子供像」として、「差別を見抜き、差別を許さない子供」ということが挙げられています。そして、解放同盟との連携を示す記述もあります。

…同和保育の実践と推進は、部落解放へ向けての運動の一つといえるので、関係機関団体と連携し、家庭や地域社会の啓発に努めることが要請されていることを付言しておく。

この手引き書以前から「同和保育所」は存在し、1970年代に同和対策事業の一環として建設されました。以前の記事でも触れたとおり、同和保育所といっても同和地区住民専用の保育所ではなく、通っているのはほとんどは地区外の子供たちでした。私も同和保育所に通っていましたが、子供の目から見れば普通の保育所です(実際、私がそこを同和保育所だと知ったのはごく最近です)。
それでは、現在の同和保育はどうなっているのでしょうか?これは第28回全国解放保育研究集会の冊子から読み取ってみましょう。
集会のテーマに「差別の現実に学び」という言葉がありますが、これは1984年の手引書にも存在します。そういった根底の部分は変わっていませんが、「男女共同参画」「ジェンダーフリー」といったことが強調されているのが特徴です。子供を被差別者と見なす考えから、「子供」という言葉が漏れなく「子ども」に改められています。
基調提案ではいきなり「この国では人権は紙切れ同然のようで、先の通常国会では『人権擁護法案』ひとつ挙げることができませんでした。」といった記述があります。また、鳥取市の「部落問題はいま…」という冊子でも見られたような次の記述があります。

例えば、結婚を家と家との結びつきととらえ、どちらかが由緒正しい家柄、血筋なのかと釣り合いを問題にする考え方が今も根強く存在しています。この考え方が「同族主義」「民族主義」の意識をつくり、違うものを排除し差別するという関係を生み出す要因となってきたのです。

一方で、音楽や言葉遊びに関してつぎのような記述があります。

そして、反戦・平和への願いを保育の中に、さらに民族保育への取り組みを充実させることで、音楽という感性を伝える分野で表現をつくりあげてきました。

前後の文脈では触れられていないので分かりにくいですが、「民族保育」というのは実は主に朝鮮総連が行っている朝鮮民族としてのアイデンティティを保つ教育のことです。これこそ民族主義の極みなので、前後の記述が非常に矛盾しています。
ただし、この冊子は「同和」に関することだけでなく、一般的な保育全般も扱っており、最後に「差別の現実に学び云々…」とお決まりのような言葉が書いている以外は、普通の保育の現場に関する事例を扱った記事がほとんどです。お決まりの言葉もなく、同和保育の研究発表とは全く分からない記事もいくつかあります。冊子を見る限り、純粋な保育の研究が70%、イデオロギーが30%、といったところです。
最後にもう1つ、同和保育に関する重要なキーワードである「同和加配保母」について触れておきます。研究集会の冊子に、歴史的経過の説明として次の記述があります。

1973年10月鳥取市公立保育所 4園に1名ずつ同和保育加配保母を配置
(被差別部落の就労保障の1つとして地区出身者が採用される)

実は、このことは少なくとも2000年になるまで続いており、鳥取市議会で問題になりました。解放同盟により推薦された人は採用試験はするが、試験の点数に関係なく採用するという実態があったためです。
研究集会の資料によれば、1997年の時点で既に同和加配保母は一般施策に移行されており、「家庭支援推進保育士」となっていました。ただ、カッコ付きで「同和保育推進保育士」とも書かれています。
なお、鳥取市は解放同盟の推薦による保育士の採用は現在では行っていないとしています。

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