あるバス会社の社内報の内容

同和問題学習資料「企業・職場における同和問題の取り組み」鳥取県部落解放研究所(平成5年1月18日)より引用
先日、米子営業所に大へん嬉しい手紙が届きました。
前略、7月9日、午後6時10分ごろ、日の出町から高島屋前まで貴社のバスを利用させていただいた者ですが、実は乗車してから小銭の持ち合わせがないことに気づきました。(財布の中に5,000円札しかなく)運転手の方に両替をお願いしたところ「5,000円札は両替できません。この次に○○バスに乗られた時に今日の料金と一緒に払っていただけたらけっこうです」と言われました。大へん迷惑をおかけして申しわけありませんでした。
しかし、普段○○バスを利用することはほとんどなく、次はいつ乗車するかわかりませんのでこのようなかたちで運賃をお返しさせていただきますことをお許しください。
たしか、バスのナンバープレートが<12-61>で運転手さんは長谷川さん(仮名)と言われる方でした。
どうもありがとうございました。
とあって郵便書留(642円)で、130円が入っていました。
私はこれが水平社宣言に言う「人間を尊敬すること」だと思いました。人の心を傷つけないように気を配り、乗客を信頼する運転手。その細かい配慮を感謝し、信頼にこたえようとするお客さん。この心と心の響きあいが、本当の意味の人間尊重・人権尊重だと思いました。
このお客の行為に感激した米子営業所長は、感謝の印に1,000円相当のテレホンカードを持って行かれたとのことです。
わずか130円が、双方合わせて1,642円の出費になりましたが、人の心の美しさは、お金の多寡でないことを教えてくれました。
米子での最高の土産でした。

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企業研修は差別を拡大・再生産する恐れがある

鳥取市解放大学(リーダー養成講座)というものがあります。この講座は、市役所の管理職や、鳥取の主要な企業の人権啓発担当者が参加する一種の人権・同和研修です。
ではなぜ、「リーダー養成講座」なのでしょうか?「リーダーの養成」については、鳥取県の資料に記述があります。鳥取県商工労働部による「企業における同和問題・人権問題の取り組み方」(平成10年7月)という冊子です。
「企業における取り組みのあり方」という章に以下の記述があります。

(3)研修推進の課題
同和問題の研修を推進するためには、次の条件を整備することが必要です。
第1は、研修リーダの養成と、その資質の向上です。研修には画一的なマニュアルはなく、同じ企業の中でも職場によって研修の内容は異なります。指導者は、職場の実情に合わせて、自分の言葉でわかりやすく語りかけ、みんなと十分に話し合うことが大切です。画一的な、硬直した研修会は、結果として差別を拡大・再生産する恐れすらありますので、すぐれたリーダーが必要です。研修リーダーの養成と資質の向上に努めてください。
特に研修リーダーとなる人については、「差別の存在」に気づき、またそれを見抜く力を備えていることが問題解決にとって必要不可欠ですので、具体的な事例をひいて自らの差別性を絶えず点検することも大切なことです。

この資料は8年前のものですが、現在のリーダー養成講座も、内容は大差ないものと思われます。
「画一的な、硬直した研修会は、結果として差別を拡大・再生産する恐れすらあります」と認めていますが、実際の企業研修は「画一的な、硬直した」ものではないのでしょうか?
結論から言えば、「画一的な、硬直し」ていない研修が民主的で、自由な研修であるならば、それは不可能であると思われます。それは、この冊子に導くべき答えが指定されているためです。企業研修は、必然的に用意された結論に到達しすることになります。以下に、この冊子から抜き出した模範解答を列挙してみます。

  • 不当な差別に憤りを覚え、その解決に努力する意欲に燃えることが大切です。
  • 部落差別は今も厳しく生きていますので、同和地区の人たちの生活の実態とともに差別をしてきた側の実態を正しくとらえ具体的に学ぶことが必要です。
  • 「同和問題とのかかわりがない」という逃避的な考えは、結果として部落差別を温存するものであり、自分は何をすべきかの自覚が大切です。
  • 同和問題は、同和地区の人たちの生命と生活にかかわる深刻で厳しい問題であり、安易な気持ちで語ってはいけません。
  • 自由な話し合いとはいえ、差別する自由はありません。部落差別の現実を抜きにして問題を考え、話し合うのは間違っています。
    こういった結論を真っ向から否定する主張をすることは、実際のところ無理でしょう。例えば、社員研修の感想文で本音をありのままに書いたところ、「差別感想文」として問題にされるといったことが実際に起こっています。

  • 同和地区児童のカミングアウトが行われている証拠

    平成13年度 第5回鳥取市政懇話会(第1部会)議事要旨より

    1.日時
    平成14年1月25日(金)午後3時から午後5時
    2.場所
    市役所本庁舎6階第3会議室
    3.出席者
    (第1部会構成員)
    部会長:英 義人
    須崎 俊雄、本多 享子、森本 幸子、山田 幸夫(欠席)西川 真也
    (鳥取市側)
    同和対策課 三浦課長、綾木課長補佐、角野企画員
    同和教育課 中嶋課長
    4.議事経過
    「鳥取市同和対策総合計画について」

    ○部落宣言を行う子どもはいるのか。
    →ずっと以前は同和地区の子どもたちだけが宣言しているだけであったが、今は、それぞれがどういう立場で差別をなくしていこうとしているかを見つめていくべきではないかという観点から、自らのおかれた社会的立場の自覚を深める取組みをしている。宣言することが目的ではなく、地域や学校での違いはあるが、ある程度は自分たちの友達の中にも同和地区の人がいるということは小学校高学年になれば認識している。
    ○そういう取組みなどを親が十分認識しているのか。
    →保護者には説明しており、その会に来られない方には、懇談等で説明したり家庭訪問するなどして理解を求めている。

    ○部落宣言の話があったが、それを知らしめる必要性が本当にあるのか。人権という概念の中で人を人として尊重し合うことができれば、それは関係ないのではないか。あえて、分かることが必要なのか。
    →子どもたちがどういう場面でどういう行動をしないといけないかということを確認していく必要がある。自分が差別を受けるかもしれないという立場で差別に向かうか、或いは、自分が知らず知らずのうちに差別してしまうかもしれないという立場で差別に向かうかは、それぞれ自分の立場を理解しているかどうかで大きく違ってくるものと思われる。

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    鳥取県における同和保育とは?

    前回に引き続いて「同和保育」について採り上げます。
    同和保育は同和教育同様に、同和地区の低学力問題対策のために始められた、とされています。言わば同和教育を就学前教育にも拡張したものです。同和保育の歴史は同和教育よりも浅く、鳥取県からは1984年に初めて「同和保育の手引き」が発行されています。
    しかし、同和教育とは異なり、同和保育の手引書には当初から過激な主張が入っていました。1984年の同和保育の手引きから引用します。

    乳幼児の日常生活にも偏見や差別の影響が見られる。保育者自身が差別を見抜く鋭い眼をもたなければならない。子供の生活の中には差別はないというような先入観は捨て、乳幼児の生活の中にある親の生活や部落差別の結果としてのひずみを保育の課題として解消しなければならない。

    同和保育といっても、当初から部落差別と戦う子供を育てることを目的とした「解放保育」でした。実際、「同和保育の目指す子供像」として、「差別を見抜き、差別を許さない子供」ということが挙げられています。そして、解放同盟との連携を示す記述もあります。

    …同和保育の実践と推進は、部落解放へ向けての運動の一つといえるので、関係機関団体と連携し、家庭や地域社会の啓発に努めることが要請されていることを付言しておく。

    この手引き書以前から「同和保育所」は存在し、1970年代に同和対策事業の一環として建設されました。以前の記事でも触れたとおり、同和保育所といっても同和地区住民専用の保育所ではなく、通っているのはほとんどは地区外の子供たちでした。私も同和保育所に通っていましたが、子供の目から見れば普通の保育所です(実際、私がそこを同和保育所だと知ったのはごく最近です)。
    それでは、現在の同和保育はどうなっているのでしょうか?これは第28回全国解放保育研究集会の冊子から読み取ってみましょう。
    集会のテーマに「差別の現実に学び」という言葉がありますが、これは1984年の手引書にも存在します。そういった根底の部分は変わっていませんが、「男女共同参画」「ジェンダーフリー」といったことが強調されているのが特徴です。子供を被差別者と見なす考えから、「子供」という言葉が漏れなく「子ども」に改められています。
    基調提案ではいきなり「この国では人権は紙切れ同然のようで、先の通常国会では『人権擁護法案』ひとつ挙げることができませんでした。」といった記述があります。また、鳥取市の「部落問題はいま…」という冊子でも見られたような次の記述があります。

    例えば、結婚を家と家との結びつきととらえ、どちらかが由緒正しい家柄、血筋なのかと釣り合いを問題にする考え方が今も根強く存在しています。この考え方が「同族主義」「民族主義」の意識をつくり、違うものを排除し差別するという関係を生み出す要因となってきたのです。

    一方で、音楽や言葉遊びに関してつぎのような記述があります。

    そして、反戦・平和への願いを保育の中に、さらに民族保育への取り組みを充実させることで、音楽という感性を伝える分野で表現をつくりあげてきました。

    前後の文脈では触れられていないので分かりにくいですが、「民族保育」というのは実は主に朝鮮総連が行っている朝鮮民族としてのアイデンティティを保つ教育のことです。これこそ民族主義の極みなので、前後の記述が非常に矛盾しています。
    ただし、この冊子は「同和」に関することだけでなく、一般的な保育全般も扱っており、最後に「差別の現実に学び云々…」とお決まりのような言葉が書いている以外は、普通の保育の現場に関する事例を扱った記事がほとんどです。お決まりの言葉もなく、同和保育の研究発表とは全く分からない記事もいくつかあります。冊子を見る限り、純粋な保育の研究が70%、イデオロギーが30%、といったところです。
    最後にもう1つ、同和保育に関する重要なキーワードである「同和加配保母」について触れておきます。研究集会の冊子に、歴史的経過の説明として次の記述があります。

    1973年10月鳥取市公立保育所 4園に1名ずつ同和保育加配保母を配置
    (被差別部落の就労保障の1つとして地区出身者が採用される)

    実は、このことは少なくとも2000年になるまで続いており、鳥取市議会で問題になりました。解放同盟により推薦された人は採用試験はするが、試験の点数に関係なく採用するという実態があったためです。
    研究集会の資料によれば、1997年の時点で既に同和加配保母は一般施策に移行されており、「家庭支援推進保育士」となっていました。ただ、カッコ付きで「同和保育推進保育士」とも書かれています。
    なお、鳥取市は解放同盟の推薦による保育士の採用は現在では行っていないとしています。

    同和保育の研究会の冊子に狭山闘争の歌

    第28回全国解放保育研究集会

    昨年11月5日から7日、鳥取市で全国解放保育研究集会が開催されました。これはいわゆる「同和保育」の研究集会です。同和保育と言うのは元々、低学歴層の多かった同和地区の学力保障の1つとして始められたものです。もちろん、現在はそういった本来の目的からは外れてしまっています。
    この大会は行政のバックアップのもとで行われました。鳥取市からは180万円の補助金が交付されていますし、県からも少なくとも100万円以上の補助が出ているようです。写真の冊子の冒頭には、全同教や自治労委員長と並んで、片山鳥取県知事、竹内鳥取市長、中永鳥取県教育長のあいさつ文が載せられています。
    さて、その集会テーマは次の通りです。


    『部落差別をはじめあらゆる差別の現実に学び、解放保育を創造しよう』
    -保育所・幼稚園・地域、家庭すべてをジェンダー・フリーの視点で点検し、「男女共同参画社会」の担い手を育てる保育を創造しよう-

    1. 平和・人権文化の確立をめざし、「世界の子どもに平和と非暴力の文化をつくる国連10年」をすべての地域、保育所・幼稚園で実践しよう!
    2. 「子どもの権利条約」の精神を生かし、すべての地域で子どもの権利擁護システムの確立に向けて、「人権教育のための世界ぷろぐらむ」の取り組みを強化しよう!
    3. 地域の保護者組織の活性化をめざし、「子ども・子育て応援プラン(新新エンゼルプラン)」「次世代育成支援対策推進法」の具体化と、多様なニーズに応える子育て支援体制を確立しよう!
    4. 保育制度への市場原理の導入、公的責任の放棄に反対し、子育て支援体制を確立しよう!
    5. あらゆる差別と闘い、互いの違いを認め合う多文化強制社会を確立していこう!
    6. 石川一雄さんの生い立ちから学び、保育内容の充実・創造を進めよう!
    7. 全国各地に解放保育の輪を広げ、すべての地域で人権保育基本方針を獲得し、全国解放保育連絡会を強化しよう!
    8. 新たな解放保育行政の創造と部落解放・人権政策の確立をめざそう!

    このように、非常に政治的な主張が保育の場にまで持ち込まれており、なおかつ偏向したものです。
    6.の「石川一雄さん」というのは、狭山事件のことを指しています。もちろん、本来は保育とは何の関係もありませんが、解放同盟による狭山闘争は保育の場にも持ち込まれました
    「部落解放・人権政策の確立」というのは、部落解放基本法、人権擁護法、そして話題の人権救済条例を推進する政治運動のことです。
    この冊子の最後の方に「狭山の風を」という狭山闘争の歌が載っています。以下に引用しますので、ご覧ください。

    少しの願いと 小さな幸せ
    それだけでよかった
    激しい怒り 自由の誓いを胸に秘め
    今 私は見つめてる
    真昼の暗黒を思わせる”あの日の事件”
    どうして 事実調べができないのか!
    どうして 証拠の開示がダメなのか!
    吹雪の中 たたずむことしかできなくて
    なんども思った 夢であったらいいのにと
    氷を溶かしてくれる 暖かい
    狭山の風を 風を吹かせたい
    無くした時間と 戻らぬ青春
    なにもいらなかった
    君と歩く 自由の未来を胸に秘め
    今 私は見つめてる
    差別と偽りで綴られた”あの日の事件”
    どうして 事実調べができないのか!
    どうして 証拠の開示がダメなのか!
    吹雪の中 信じることさえできなくて
    かすかに聞こえた「一人じゃないよ」と呼ぶ声が
    希望を運んでくれる 真実の
    狭山の風を 風を吹かせたい

    「在日韓国・朝鮮籍の人が日本に在住している歴史的背景」の指導

    同和教育実践事例集(昭和55年8月)に載っていた倉吉市の中学生の作文です。これは倉吉市内の中学校の同和教育で使われました。

    差別と区別

    人間は誰でも裸で生まれる。15年前、名古屋で生まれたぼくもそうである。ところが、幼稚園に通うようになってから、不思議な経験をした。そこでやりとりされることばと、街で使われていることばが違っていたのだ。それがなぜ違うのかわからなかった。ぼくが通ったのは朝鮮人の幼稚園だった。小学校に入ったのは倉吉に移ってからだ。クラスメートはKというばくの姓を聞いてばかにした。ぼくはこの時初めて、自分が朝鮮人であることを知り、心の中を冷たい風が吹きぬけるのを感じた。
    「どうしてばくだけが。」「この教室の中でなぜぼく一人が。」と悩んだことを覚えている。中学校に入ってからは、生徒会などでリーダーとして活動していることもあってか、からかわれることもなかった。かえって、友達から日本名で呼ばれると、違和感を感じたりした。しかし、それを違和感として感じるまでには朝鮮人であるばくがなぜ日本にいるのかを知らなくてはならなかった。
    今、日本には60万人以上の朝鮮人がいる。これらの大部分は、満州事変後、日本の労働力不足を補うため、強制的に連れてこられた人々やその子孫である。ばくの家族もそうである。祖母と父と母、二人の妹とぼくをいれて6人家族。祖母は一世、父と母が二世、ばくと妹は三世だ。祖父母たち一世が若かった頃は炭鉱や工場で重労働を強いられ、臭い便所の中をかいくぐって脱走するものさえあったそうである。
    二世である父の戦前・戦後も朝鮮人への差別は厳しかった。貧しい中からやりくりして学校へ通わせてくれた父母の家計を助けるため、高校卒業後、日本の会社に就職願書を出したが、送り返された。朝鮮人だというのが、その拒絶の理由だった。父はそういう民族差別の壁に泣かされたそうである。そして父は今、母とともに廃品回収業を営んでいる。
    日本人にとって朝鮮人は外国人である。だから、区別することは一向にかまわない。しかし、なぜ差別されなければならないのだろうか。朝鮮人が日本で暮らすことになった根本の責任は日本人にある。このことを考えるならば、差別は許されるべきものではない。けれども、現実には朝鮮人は差別の中に置かれているのだ。
    日本は経済面で高度成長を遂げ、大国として世界の注目と期待を集めている。経済大国を作りあげた日本人の英知と努力は、これらの差別をなくすことにもふり向けられてよいのではないか。黒人問題など海外の差別には敏感に反応する日本人が、国内の差別問題に鈍感なのは不思議でならない。朝鮮人であるぼくにとって望ましいのは、外国人として区別されることだ。区別は、共通点よりも相違点を重くみるところから出発する。自分と違うものを持った人を、差別するのでなく尊重し認め合うのが今の世界の流れなのだ。
    最近、ぼくを力づけ、希望を与えてくれる二つの出来事があった。一つは、在日朝鮮人の金敬得氏が、司法試験に合格し、ぼくたちに弁護士への道を広げてくれたこと。もう一つは、外国人でも国公立大学の教授に採用しようという法案が、国会に提出されていることだ。これらの出来事は、外国人への差別が徐々にとり除かれ、その権利が尊重されつつあることを意味している。つまり、区別されるようになったのだ。
    日本に生まれ、日本で育った三世であるぼくに、日本文化が与えた影響は大きい。また、差別の日々も知っている。しかし、そのような中で、朝鮮人の誇りを持って生きるためにも、日本人から正しく区別されたいと思うのである。

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    企業、新卒者に徹底される「公正採用選考」

    鳥取県内の高校では、就職を希望する生徒には、「公正採用選考」についての指導が行われます。それは、差別につながる質問をされても答えてはいけないというもので、時には学校に報告するように指導されます。
    私は高校の頃、進学組だったのですが、就職する生徒が多い高校だったので、特別に時間を設けてクラス全体でこの指導が行われました。差別につながる質問として代表的なのが、父親の職業を聞いてはいけない、ということです。なので、例えば企業の面接担当者が「お父さん」ではなく「父は」と答えられるか確かめるために父親の職業を聞いたところ、「そういう質問には答えられません」と言われて面食らうことが度々あるようです。
    同和問題に関して言えば、県内で就職差別の事例は、ここ10年ほどの間、1件もありません。過去の差別の事例として有名なのは「部落地名総鑑」です。鳥取県内でも某大手家電メーカーや電力会社が買っていたことが明らかになっています。県内の主要都市にある同企連はこの事件がきっかけで設立されました。
    この頃、半ば強制的に進められたのが、企業の採用選考で全国高等学校校長会による統一応募用紙を使うことでした。それをしないで、例えば家族構成を聞くといったことをすれば、差別体質を持った企業として糾弾されました。実際に1990年代、鳥取県や島根県で統一応募用紙を使わなかった企業に対して相次いで糾弾会が行われています。
    こうして、差別のあるなしに関わらず、「差別につながる」と思われるような選考は企業はできなくなりました。これは鳥取だけでなく、大阪などでも有名な話ですね。
    手元に、鳥取県商工労働部発行(平成10年7月)の「企業における同和問題・人権問題の取り組み方」という企業向けの研修資料があります。この中から、採用選考でしてはいけない質問について抜き出してみます。

    • あなたの本籍地はどこですか。
    • あなたのお父さん(お母さん)の出身地はどこですか。
    • どうして本籍と現住所が違うのですか。
    • 生まれてから、ずっと現住所に住んでいるのですか。
    • あなたのお父さんは、どこの会社に勤めていますか。また、役職はなんですか。
    • あなたの家の家業は何ですか。
    • あなたの家族の職業を言ってください。
    • あなたの家族の収入はどれ位ですか。
    • あなたのうちは、田畑はどれ位ありますか。
    • あなたのうちの不動産はどれ位ありますか。
    • あなたのうちは、山林がありますか。
    • あなたのうちの耕地面積はどれ位ですか。
    • あなたの住んでいる家や土地は、自分のものですか。
    • (住所について)××町の△△はどのへんですか。
    • あなたの住んでいる地域は、どんな環境ですか。
    • あなたの住所の略図を書いてください。
    • あなたの家庭の雰囲気は。
    • あなたは転校の経験はありますか。
    • お父さん(お母さん)がいないようですが、どうしたのですか。
    • お父さん(お母さん)は病死ですか、死因は何ですか。病名は。
    • お父さん、お母さんの学歴は。
    • あなたの信条は何ですか。
    • あなたの生活信条は。
    • あなたの信条としている言葉は。
    • 家の宗教は何ですか。何宗ですか。
    • あなたの家庭は、何党を支持していますか。
    • 尊敬する人物を言って下さい。
    • あなたの人生観は。
    • あなたは、自分の生き方についてどう考えていますか。
    • あなたは、どんな本を愛読していますか。
    • あなたの家は、何新聞を読んでいますか。

    最後の方は何か凄いですが、実際に高校ではこういった質問は違反だと指導されます。私の高校の頃の経験では「愛読書や好きな言葉を聞いてはいけない」と教師が言ったら、さすがに野次が飛びました。
    果たして、県内企業の採用選考において「差別につながる質問」がゼロになる日は来るのでしょうか。

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    同盟休校(3) ~教育に与えた影響~

    2度目の大規模な同盟休校は1980(昭和55)年1月28日に行われました。この同盟休校も全国的に行われたものですが、全国紙ではほとんど扱われていません。地元鳥取県の日本海新聞では、社会面で比較的大きく報じられています。
    しかし、この同盟休校は前回よりもさらに大規模なもので、部落解放同盟鳥取県連の発表によれば、参加者は2512人、実に同和地区児童生徒の56%が参加するというものでした。前回同様東部での参加率が高く、東部80%、中部69%、西部22%となっています。
    なお、この同盟休校に参加したのは児童生徒だけではありません。件の保育所では「同盟休園」が行われています。
    ともかく、現在の人権・同和教育に「社会的立場の自覚」が盛り込まれており、その運用に鳥取県の東部と西部で大きな違いが見られるのは、この同盟休校が大きな要因となっていることは間違いありません。
    教育に与えた影響は、指導書からも読み取ることが出来ます。私の手元に、同盟休校以前の昭和46年10月に発行された、鳥取県教育委員会の同和教育資料があります。これは74ページに渡る非常に詳細な指導書ですが、「社会的立場の自覚」については全く触れられていません。また、児童生徒に差別があると気づかせる指導もありません。
    同盟休校以前の同和教育は国の同和対策事業に基づいたものですが、その根底にあるのは「正義と心理を重んずること、公平な態度、科学的な考え方」といったことで、従来から理想とされた社会人像を実現するものでした。しかし、同盟休校後の同和教育は全く特殊なものに変わりました。
    同盟休校後の昭和55年3月発行の同和教育実践事例集には「社会的立場の自覚」という言葉が出てきます。以下は、「校内同和奨学生研修会実施事例 – 社会的立場の自覚を求めて -」と題された解説からの引用です。

    (昭和)50年、51年と教師自身の研修も進み、地域進出(隣保館訪問、地区出身生徒全家庭訪問、地区懇談会参加)の定着化によって同和地区の保護者との連携も深まり、学校の同和教育が進むにつれて教師も地区出身生徒も本当の意味で胸を張って同和奨学生であることを、同和地区生徒であることが言えるようになった。そして53年度には全校集会、あるいはホームルームで同和奨学生に対する連絡、指導が何のわだかまりもなく行われるようになり、54年度には同和地区出身生徒が全員同和奨学生となった。

    この下りからも、当時「立場宣言」が行われていたことが分かります。
    この同和奨学金制度は昭和40年から既に始まっていました。奨学金と言っても「支給」であるため、返還の必要はありません。当時を知る方の話では、友達から「自分は奨学金をもらっていて、それは返さなくていいものだ」といったことを聞いて、「そんなうまい話があるか、そりゃ泥棒よりひどいな」と罵ったそうです。もちろんその方は、当時は彼が同和地区出身者であることも同和奨学金という制度があったことも知りませんでした。
    「全員同和奨学生となった」という部分も興味深いです。同和奨学金の給付条件には、同和地区出身だけでなく「経済的理由により就学が困難であると認められること」「学業成績良好で性行正しく身体が強健であること」という条件があったのですが、実際は空文化していたようです。
    そして、指導の中には狭山事件の署名活動といった、解放同盟の政治運動が堂々と出てきます。私が中学生だった1994年前後も、このような指導は続いていました。
    昭和46年の同和教育資料には次の記述があります。

    教育の政治的中立性の確保に努め、同和教育の推進をはからねばならない。
    これは、教育基本第8条第2項の規定によるもので、同和教育と政治的な運動とを明確に区別し、政治運動そのものが直ちに教育であるといった考え方に偏ることのないように留意して、児童生徒の見方や考え方を、ある特定の政治的立場や方向に固定させることのないよう、公教育機関としての学校の立場を堅持して教育にあたる。

    この記述が、色あせて見えます。もちろん、現在の同和教育の指導書にこのような記述はありません。
    教育基本法の精神に反する同和教育が今現在でも行われているのが鳥取の実情です。

    同盟休校(2) ~狭山同盟休校~

    狭山同盟休校は、狭山事件の刑事裁判の判決に対する抗議運動の1つとして行われたものです。
    狭山事件とは1963年5月1日に、埼玉県狭山市で女子高生が暴行され、殺害された事件です。石川一雄という人物が犯人として逮捕され、浦和地裁で死刑判決が言い渡されます。そして1969年、部落解放同盟はこの事件は冤罪であり、差別裁判であるとして激しい抗議を行いました。石川一雄が同和地区の青年であったことから、狭山事件はこの時代の部落解放運動の中でも最も重要なものになってゆきます。
    狭山事件についてはインターネット上に多数の資料があるため、詳しい説明は割愛します。
    狭山同盟休校は鳥取県内では大規模なものが2回行われています。いずれも、部落解放同盟の中央により全国的に呼びかけられ、それが解放同盟鳥取県連においても行われたものです。
    1976年5月22日に行われた1回目の同盟休校は全国的には非常に大規模なもので全国紙でも報じられ、教育界を震撼させる出来事でした。同和地区の児童生徒が一斉に学校を休むということは、学校内で誰が同和地区の子供なのか公になってしまうということを意味し、まさに前代未聞のことです。これに対し、各自治体の教育委員会は抵抗するか、あるいは黙認しました。
    長野県を例に取ると、県教委はこれを黙認したと当時の新聞は伝えています。しかし、松本市などでは地元からの反発があり、市教委が阻止したため、同盟休校は行われませんでした。しかし、多くの地域では生徒児童が「自分は被差別部落出身であり、同じく被差別部落出身であり部落差別の犠牲となった石川さんを助ける」と宣言し、同盟休校に参加していきました。
    この同盟休校は鳥取県内でも大規模に行われました。解放同盟鳥取県連の発表では、同和地区の児童生徒の約3割にあたる1560人が参加したとされています。特徴的なのは県東部の参加率が高いことです。
    当時の県連書記長、前田俊政氏の発表によれば、県全体では解放同盟の支部が組織されている地区の45%の児童生徒が参加し、県東部では80%にも及んでいます。特に智頭町では、実に100%の参加率でした。また、学校以外でも倉吉市の職員がストライキを行ったことが伝えられています。
    同盟休校に参加した児童は、学校に行く代わりに隣保館や公民館に行き、保護者と共に、狭山事件についての学習会や体験発表を行いました。
    県教委がどう対応したかについて、当時の日本海新聞はこう伝えています。

    また十三の県立高校で予定通り中間テストが行われ、欠席者には今週追試験が行われることになっている。また県教委は今週、同和主任の会議を県内三ヶ所で開き、同盟休校の事後指導を徹底することにしている。

    また、学習会の場に教員が現地指導に来たことが伝えられています。このことから、鳥取県教委は同盟休校を黙認ないしは一部協力していたことが伺えます。
    最後に、この同盟休校に参加した児童の心情を伺えるものとして、作文を引用しておきます。

    「同盟休校に参加して」6年 女子
    今日、同盟休校だったので学校を休みました。
    私は、なぜ学校を休んだかという理由を少しは知っていましたが、同盟休校について、前田のおじさんと友の会の会長さんが説明され、前よりよく分かりました。
    次に、「夜明けをめざして」という映画を見ました。
    私は、この映画を見るのは二度目でしたが、でも一度目と二度目の気持ちは違っていました。はじめてみた時は、よくわからなかったが、二度目は、人の言った気持ち、言われた人の気持ちが分かりました。映画が終わると児童館で勉強をしました。
    勉強というのは差別の勉強です。映画の話、石川青年のこと、昔の私達の村のことなどです。
    私は、「私達の村と映画に出てきた橋の向こうが、どんな関係があるのですか」とたずねられたとき、私は「差別されやすい部落、部落民だから」と答えました。その時、ごちゃごちゃになって、自分でも何を言っているのかわかりませんでした。私は、この同盟休校に参加して、とてもよい学習になったと思います。私達が、大人になっても忘れることが出来ないと思います。これからもいろいろな差別について勉強して、自分も差別しない人間、人に差別されても負けず、差別した人に正しくわかってもらえるように話し合いたいと思います。
    一日も早く差別をなくするために、みんな力を合わせて、差別のない明るい社会をつくるようがんばります。

    「前田のおじさん」とは、言うまでもなく前田俊政氏のことです。

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    同盟休校(1) ~抗議としての盟休~

    同和問題を語る上で避けて通れないのが、同盟休校(盟休)です。同盟休校と言うのは児童生徒が一斉に休むという抗議方法で、ストライキ、あるいはサボタージュのようなものです。
    戦前から、同和問題に関する同盟休校はちらほらあったようです。手元に、鳥取市のとある同和地区の老人にインタビューした記事があります(部落解放/解放出版社 1977.12)。例えば、級長選挙にからんで同和地区のある子の方が点数があったのに、次点の地区外の子を級長にしたということでストライキになった、とうものです。他は運動会の勝ち負けのトラブルで起こった同盟休校です。
    昭和1ケタの時代、鳥取でも「一心会」のような組織が行政と共に同和対策事業を行っていました。しかし、子供の間で「あれは部落だ」「新平民だ」「エッタだ」と公然と囁かれ、同和地区の子供を仲間はずれにするようなことがありました。また、学校の校舎移転の際に、一時的に子供を神社の子守り堂通わせた際に、部落の子供を神さんの近くにおくなと周囲の村から抗議が来ることがあったということです。
    そこで、不平等な扱いをされた際の抗議手段として用いられたのが同盟休校でした。映画「橋のない川」のような風景が鳥取にもあったわけですね。
    しかし、戦後になると、徐々に同盟休校は組織的な行政闘争の手段として用いられるようになってきます。その1つが、過去の記事でも触れた江府町の入会権問題にはじまる行政闘争です。この闘争を主導したのが前田俊政でした。
    鳥取の部落解放運動で、前田俊政という人物は大変重要な役割を果たします。彼はかつての部落解放同盟鳥取県連書記長で、解放同盟の中央の委員になった人物でもあります。鳥取市出身で、市議会議員でもありました。彼の地元には銅像が建っています。相当の勉強家でもあり、読書家であったという評判が地元では聞かれます。
    同盟休校を用いた行政闘争は成功し、鳥取県や、彼の地元の鳥取市でも多額の同和対策予算が組まれ、区画整理・道路拡張・改良住宅の建設、といった同和対策事業により鳥取の同和地区は大いに潤いました。現在、同和地区の産業が建設業に偏っているのはそういった事情があります。
    地域での差別待遇もなくなった、環境も改善された、という状況で、同盟休校はやがて政治色を帯びてくるようになります。それが、1970年代に行われた「狭山同盟休校」でした。

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