同盟休校(1) ~抗議としての盟休~

同和問題を語る上で避けて通れないのが、同盟休校(盟休)です。同盟休校と言うのは児童生徒が一斉に休むという抗議方法で、ストライキ、あるいはサボタージュのようなものです。
戦前から、同和問題に関する同盟休校はちらほらあったようです。手元に、鳥取市のとある同和地区の老人にインタビューした記事があります(部落解放/解放出版社 1977.12)。例えば、級長選挙にからんで同和地区のある子の方が点数があったのに、次点の地区外の子を級長にしたということでストライキになった、とうものです。他は運動会の勝ち負けのトラブルで起こった同盟休校です。
昭和1ケタの時代、鳥取でも「一心会」のような組織が行政と共に同和対策事業を行っていました。しかし、子供の間で「あれは部落だ」「新平民だ」「エッタだ」と公然と囁かれ、同和地区の子供を仲間はずれにするようなことがありました。また、学校の校舎移転の際に、一時的に子供を神社の子守り堂通わせた際に、部落の子供を神さんの近くにおくなと周囲の村から抗議が来ることがあったということです。
そこで、不平等な扱いをされた際の抗議手段として用いられたのが同盟休校でした。映画「橋のない川」のような風景が鳥取にもあったわけですね。
しかし、戦後になると、徐々に同盟休校は組織的な行政闘争の手段として用いられるようになってきます。その1つが、過去の記事でも触れた江府町の入会権問題にはじまる行政闘争です。この闘争を主導したのが前田俊政でした。
鳥取の部落解放運動で、前田俊政という人物は大変重要な役割を果たします。彼はかつての部落解放同盟鳥取県連書記長で、解放同盟の中央の委員になった人物でもあります。鳥取市出身で、市議会議員でもありました。彼の地元には銅像が建っています。相当の勉強家でもあり、読書家であったという評判が地元では聞かれます。
同盟休校を用いた行政闘争は成功し、鳥取県や、彼の地元の鳥取市でも多額の同和対策予算が組まれ、区画整理・道路拡張・改良住宅の建設、といった同和対策事業により鳥取の同和地区は大いに潤いました。現在、同和地区の産業が建設業に偏っているのはそういった事情があります。
地域での差別待遇もなくなった、環境も改善された、という状況で、同盟休校はやがて政治色を帯びてくるようになります。それが、1970年代に行われた「狭山同盟休校」でした。

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