[読み物]学校における差別事象に係る鳥取県教育委員会の見解について(3/5)

前回からのつづきです。
3 同和問題学習の見直し(教師の姿勢、指導内容のエ夫・改善、校種間連携等)
同和問題を児童生徒一人ひとりの問題としていくためには、まず、指導的な立場にある教職員が、同和問題を通して自分の生き方を振り返ったり、同和問題を自分の問題として捉えているかについて、常に自分自身を問う姿勢が必要である。特に今回の事象を通して、今一度それぞれの学校で取り組んでいる同和教育に対して、教職員自身が「やらされている同和教育」「してあげる同和教育」になってはいないかという点について見据えることが大切である。
教室には、知的理解の面でも、感性の面でも、行動の面でもさまざまな生徒がいる中で、指導をしことがうまく伝わらないことを生徒本人の責任に帰することでは、課題の解決に結びつかない。事象が発生したある学校では、あらためて、生徒一人ひとりの置かれている状況や、クラスの雰囲気などの実態をよく把握し、さまざまな課題を抱えている生徒や弱い立場に置かれている生徒としっかり向き合っていくことを、全職員で共通理解を図ったところもある。児童生徒から学び、ともに高まり合っていこうとする教師の姿勢が、何よりも大切である。
今回の事象は、授業で知識として得た「えた・ひにん」「被差別部落」という言葉のもつ歴史的背景や重みを認識せず、自分たちの生活や遊びの中で、極めて安易に発言したり、人を見下したりするために使っている。同和問題学習の中で学んだ「賤称語」について、「使ってはいけない言葉」「言ってはいけない言葉」としか生徒が受け止めていない現状がある。本来、同和問題学習は、知的理解とともに、差別に対する怒りや憤りを持ち、絶対に許せないという捉え方にまで高め、それを行動化に結び付けていかなければならない。また、一面では、差別の厳しさを指導しなければならないが、同時に、厳しい差別の中にあって、差別と闘い、守り受け継がれてきた芸能や民衆文化、生活の中に生きているたくましさ、やさしさ、温かさ、すばらしさ等をしっかりと学んでいく学習に発展させなければならない。
ある中学校長は、「同和問題についての知識や、部落差別はまちがいであるという基本認識は広がってきたものの、同和問題と自分との関わりが持てず、日常生活の中で人権を大切にしようとする行動に結びついていかない。」と述懐している。学校によっては、くらしの中にある差別の現実から深く学ぶために、現地学習を取り入れた実践をしているところも多くある。しかし、児童生徒にとって、その学習が自分や現実の生活と関連付けられたものとなっていなかったり、現地学習の目的が明確になっていなかったりすれば、結局はよそのこと・昔のこと・他人事としてしか認識されない。同和問題学習においては、パターン化した授業でなく、体験や人との出会いの中で自分自身を含めた集団の生活を振り返り、互いに高め合っていくような学習が何よりも必要である。事象発生後、学校によっては、同和教育が生徒の身近なものとして捉えることができるように、授業や学校行事を通して身近な問題を取り上げて学習したり、生徒による同和教育推進委員会が、鵬的に同和教育LHRの準備や進行に関わったりするなどの工夫を図っていったところもある。
これらの同和問題学習上の課題を解決するためには、幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び盲・聾・養護学校において、発達段階に応じた同和問題学習の内容や方法について、研究・実践を積み上げていくことが大切である。事象が発生した学校の中には、今までの小、中学校との連携のあり方について見直しをし、日ごろの教師の姿勢や指導内容の工夫・改善等を図ったところもある。今後は、口頭学校活性化事業等を通して、幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び盲・聾・養護学校の連携をより深め、相互に学習場面の公開や授業後の話し合いを進めていきたい。
(つづく)

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  1. 児童生徒の賤称語使用は、学校で教えることの矛盾による on

    http://www.naxnet.or.jp/~saikam/YUUGOU.htm#000
    「部落問題学習」の終結と人権教育
    どの子も伸びる研究会 谷 口 幸 男
    1.「部落問題学習」を終結させよう
    今日、部落問題解決の最終段階を迎えているが、学校現場では依然として「部落問題
    学習」がすすめらており、近年ではむしろ「強化」されている状況がみられる。
     1994年7月、文部省が「学校における同和教育指導資料」をだしたことによって拍車
    がかけられていると言ってよかろう。この「指導資料」は、「学校教育の場において、未
    だ毎年200件程度の差別事象が発生したとの報告がなされていることは極めて残念な
    ことである」ので、「文部省としては、今後とも基本的人権尊重の精神を高めるため、同
    和教育の推進に努力していくこととしているが、特に、学校に置いて差別事象が繰り
    返し発生していることを踏まえ、同和教育推進上の留意点を示すとともに、学校にお
    いて発生した部落差別事象についての指導事例を取り上げ、学校における同和教育の
    一層の改善.充実のための参考に供することとした」というものである。「留意点」では
    「児童生徒の発達段階に即し、各教科等の特質に応じた同和教育の充実」として「各教
    科、道徳、特別活動等の特質に応じ適切に行うこと」があげられ、、「家庭.地域社会との
    協力」では「保護者にたいする啓発」として「同和問題についての正しい理解を促すと
    ともに、学校で行っている同和教育の内容の十分な理解を促す」としている。
    この「資料」にはいくつかの問題が含まれている。一つは「差別事象」の7割が「児童生
    徒の差別発言」、2割が「差別落書き」といわれているが、学習途上にある子どもたちの
    部落問題かかわる発言を「差別発言」ととらえてよいのかどうか、まただれが書いたか
    わからない「落書き」を「差別事象」としてよいのかどうかの問題がある。二つには、「差
    別発言」「差別落書き」といわれるものが何によってもたらされたものがとわれなけれ
    ばならない。事例としてあげられているものはいずれも「差別発言」と言えるものでは
    ない。三つには、「同和教育の充実」として学校教育の全領域があげられ、「同和教育の
    視点」からの検討をあげていることである。なるほど「各教科の特質に応じた」として
    いるが、「各教科のがもつ固有の目標と内容を同和教育の視点から検討して、それぞれ
    の中で分担する重点的な内容及び指導上の留意点を明らかにして計画し、位置づける
    こと」と言われている。明らかにこれは同和教育を「中核」にしたとりくみの強制であ
    る。四つには家庭.地域への啓発が学校教育の課題、教師の任務としていることである。
    学校教育が家庭.地域と支援.協力で推進されなければならないが、それは子どもたち
    の成長.発達を保障し、学ぶ権利を保障するためのものである。啓発の課題は基本的に
    は社会教育の課題であり、地域住民の自覚的なとりくみにまつべきものである。
    今日子どもたちの生活に部落問題は存在しない。また、地区内にあって、子どもたち
    に自らの被差別体験を語る親はなくなっているし、地区外でも間違った考えを教えた
    り、差別を肯定する人達もなくなって来ている。こうしたとき、「指導資料」あげられて
    いるような観点で同和教を推進し、「部落問題学習」をすすめてよいのかどうか。私は、
    そのことによって、子どもたちの中に「差別発言」やと「誤った部落問題認識」をあらた
    な問題をつくりだすと考える。
     つぎに「部落問題学習」をした子どもたちの作文をとりあげる。
    同和問題について 中学校2年女子
    今回、「人間に光りあれ」を学習して、部落の人々が、どれだけ苦労して自由を手に入
    れようと努力をしてきたかがよく分かりました。
    この部落が確立されたのは、16C初め~17C中頃で以後何百年という長い間差別を
    受けなければならなかったなんて、私は最近まで知りませんでした。職業は人の嫌が
    るようなことばかり、住む所は河原やがけっぷちの生活環境の悪い所で、服装や髪型
    にまで厳しいきまりがあったのです。私ならとても耐えることができません。この時
    代の人々も、本当につらく悲しい思いをしたと思います。しかも、この身分制度は、上
    の身分の人が農民など一揆を起こさないようにするために、まだ下がいるんだぞ、と
    いうふうに部落の人々に農民のはらいせをぶつけるよう作っていたのです。とても腹
    が立ちました。人間というものはみんな平等であっていいはずです。それを、身分のラ
    ンクづけをしたり、差別したりすることは本当に悪いことだと思いました。
    しかし、この部落というものが今もなお根強く残っているというのです。部落出身の
    人とは結婚してはだめ、会社の就職にしても、いれてもらえない、などとあらゆる面で
    差別をうけていることは確かです。「なぜなんだろう。」と、こういう話を聞くといつも
    思います。部落、同和地区という名前がついている所に住んでいるだけで、どうして人
    々が差別を受けなければならないんだろう。どうして、「基本的人権の尊重」という憲
    法があるのに人権が尊重されていないんだろう。どうしていつまでたっても差別がな
    くならないんだろう。この最後に書いた差別がなくならない、ということは、みんなの
    心のどこかに知らず知らずのうちに、この人は部落出身なんだ、自分とは違うんだ、と
    いう差別意識が働いているかもしれません。(略)
    わたしにもいつ部落の人との出会いがあるか分かりません。もしその時に、まわりの
    みんなが、その人を差別的な目で見るとしたら、私も、もしかするとその集団に入って
    しまうかもしれません。だけどそんなことは絶対にやめようと思います。それは、私達
    の方から「何か違う」というような意識をなくしていかなければ、いつまでたっても

    の問題は解決できないと思うからです。同和地区の人々には、昔のような、つらくて悲
    しい、いやな思いは二度としてほしくありません。だから、一人一人が差別意識をなく
    し、一日も早く自由で平等に暮らせるようになってほしいです。(平成6年度作文集)
    部落問題について 高校2年女子
    わたしは今まで私の回りで部落差別だけでなくその他にあるいろいろの差別につい
    て考えたり、両親とはなしをしたりすることがなかった。だから、同和問題の授業で同
    和地区に生まれたというだけで、今だに差別されている人たちがいることを勉強して、
    驚いた。そして、同じ人間なのに差別されなければならないのが不思議だった。なぜな
    ら、私の中では、部落差別や身分差別などということは、昔にあったということが強く
    まさか今、現在になっても続いていることだとは、知らなかった。
    部落差別は、昔の封建的な時代にある支配者が人間に順番をつけ、いくつかの身分に
    分けた。そして、人民を支配しようとしたのが原因である。この古い時代の考え方が何
    百年たっても、私たちの社会の中で解決せず残っており、国民主権や人間みな平等と
    いわれている今でも尾をひいている問題である。例えば、同和地区の人たちは、就職の
    採用試験の時などに、同和地区の出身であるからというだけの理由で採用されなかっ
    たり、解雇させられたりしたそうだ。また、結婚のことについても、同和地区の出身の
    人同志の結婚だけ周囲には認められたが、他の地域の人との結婚場認められなかった
    そうだ。それにその地区の人と分かれば、婚約を解消されたりした人もいたそうだ。し
    かし今は、そういう間違った人たちが減っている。それは、昭和44年から特別の法律を
    定めて、取り組みを進めてきたからだ。(略)44年制定ということは、今年で25年目とい
    うことになる。その間に地区の環境はみちがえるようになり、人々の考え方もかわっ
    てきたはずだ。でも、今だに、差別や偏見がなくならないのはなぜだろう。人間の心の
    どこかに自分より立場の弱い人を見て安心するというみなくさがあるからだろうか。
    そんな人間の心の弱さが、部落差別だけでなく男女、外国人、障害者差別などを生みだ
    し、人権問題として今問題になっている。将来、差別の問題と出会うかも知れない。そ
    んな時、積極的に差別をなくしていこうとする行動がとれるようにこれから、さらに
    差別について勉強していかなければならないと思う。(平成6年度作文集)
    この作文は、和歌山県同和委員会が平成6年度同和運動推進事業の一環として実施
    した「啓発作文」募集に応じ(応募総数は24,951点)「優秀」として選ばれたものであ
    る。これらの作文は、きわめた真面目子どもたちの書いたものである。また、それを理
    解することができなかった子どもたちや批判的に受け止めていた子どもたちは、「適
    当に書いておいた」ということになる。そして、その中から「差別発言」、「差別事象」と
    される事態もうまれることになる。
    「優秀作文」は、きわめて真面目な子どもたちによって書かれたものである。それだ
    けに、学校ですすめられている「同和対策としての部落問題学習」の問題をきわだたせ
    ている。
    問題の第一は、子どもたちの部落問題の出会いが学校の「部落問題学習」にあり、それ
    が子どもたちの認識を決定づけることになっていることである。
     私たちが部落問題を教え始めたとき、子どもたちの「生活の事実」として部落問題が
    存在していた。それが、今日では子どもたちの普通の生活では地区の内外を問わず部
    落問題と出会うことはない。「厳しい差別の現実」をはなしても、「劣悪な状態」は「過去
    の事実」であり、聞き取りをしても父母から「被差別の体験」を聞くことができなくな
    り、祖父母の話も「祖父母の時代のこと」としてしかうけとめられなくなっている。し
    たがって、私たちが最も大事にしてきた科学的認識を育てる三原則(「本当のことを、
    生活と結びつけて、分かりやすく教える」)がなりたたなくなっているのである。どの
    作文をみても「授業ではじめて知った」とあり、「差別の現実」として共通して就職と結
    婚の差別をあげている。しかもそれが「厳しい差別の現実」として教えられ、強烈なイ
    ンパクトを与えられことになり、作文にみられるような「認識」と「意識」がつくられる。
    第二は、このようにして教えられた子どもたちは、「なぜ」「どうして」という疑問をも
    つ。なかには「これだれ取り組んでもなくならないのはおかしい」と書き、「人々の意識
    はかわらない」という子どももいる。当然であろう。解決への事実を教えられなければ、
    この作文に見られるように「人間の心」「心の弱さ」の問題となっていく。そこから、こ
    の「弱さ」を克服し、「差別意識」をなくし、差別の問題に対処できるように「勉強
    し」なければならないとなる。しかし、部落問題は社会問題であり、その社会のありよ
    うを問わなければならないものである。したがって、部落問題を残している社会とは
    どのような社会なのかを問う学習が重視されなければならない。だが、どの作文も
    「心」を問うものになっている。心の中はだれにも分からないし、「勉強」しても「差別意
    識」が払拭されているかどうかも客観的にとらえることができない。差別とは客観的
    的な事実をいうのであって、それ以外のものではない。部落問題の客観的事実を科学
    的に学習して正しい認識が育てられ、人権意識が高められていくことになるのである。
    第三は、「江戸時代に、支配者である武士によってつくられた差別」が「四百年近くた
    った今も」続いているという事実認識、歴史認識の問題である。ここでは、封建社会の
    身分と制度、近代社会の社会構造と部落問題、現在社会に残されている人権問題とい
    うとらえができず、問題を超歴史的にうけとめている。教科書の記述は、次のように
    なっている。
     「<部落差別とは何か>部落差別は400年ほど前に江戸幕府が封建体制を維持するた
    め、士.農工商という身分階級を定め、さらにその下にえた.ひにんという差別した身
    分をもうけたことにはじまりがあるとされます。明治維新以後、「解放令」が出され、た
    てまえとしては国民は平等であるとされましたが、実生活での差別はなくなりません
    でした。こうしたなかで、差別にたち向かい、自分たちの手で自由と権利を勝ちとろう
    とする運動がおこり、1922年(大正11年)には全国水平社が結成されました。その後も
    差別をなくそうとする運動はねばり強く行われました。そして、部落差別をなくする
    ことは国の責務であり、国民的課題であるとした、同和対策審議会の答申(1965年)は、
    部落差別だけでなく、その他の差別をなくす運動をすすめる大きなきっかけとなりま
    した。しかし、部落差別は表面化しにくく、いまだ被差別部落に生まれたというだけで、
    人権を侵害されている人たちがいることを私たちは忘れてはなりません。」(帝国書院
    「公民的分野」、このような記述は東書.大書にもみられる)。
     多言を要しないであろう。結論として「部落差別」は「400年ほど前」に「はじまり」、現
    在も続いている「人権侵害」の問題であるということになっている。封建社会における
    賤民制度は、明治維新の変革、戦後改革、現在社会と社会の変化に照応して性格をかえ
    ている。部落問題(部落差別)は近代日本の社会構造によって成立した社会問題であり、
    現代のそれは「残されている問題」である。部落差別をなくする運動も戦前と.戦後で
    は質的に変化している。これでは社会が変化し、発展しても、どのような運動を続けて
    も部落差別だけはなくならないと言っているのと同じである。これでは正しい歴史認
    識は育たず、解放への展望も生まれて来ない。これは「部落問題学習」が「特別な学習」
    になっているからであり、歴史学習として学習されたとしても、科学的な歴史認識(生
    産力の発展による社会が変化し、発展していくという歴史認識)を育てる学習と切り
    離された「特別な学習」「つけたしの学習」になっているからである。
    第四は、部落問題の現状についての認識の問題である。選ばれている作品のすべて
    が就職と結婚の差別をあげ、依然とし「厳しい」状況にあるとしている。また、「差別意
    識」や「偏見」も根強いという。果たしてそうなのか。総務庁がおこなった実態調査(19
    93年)によっても若年層を中心に安定的職業に就業しているし、結婚の形態で「夫婦と
    も同和地区」というのは57.5%であり、25歳未満では70.5%が地区外との結婚になって
    いる。また、「被差別体験なし」が67%である。「隣近所の人が同和地区の人だとわかった
    場合」でも「かならず親しくつきあう」が87.8%で、差別は確実に解消に向かっている。
    昨年5月17日の地対協「意見具申」では、「特別対策については、おおむね目的を達成で
    きる状況になったことから、現行法期限である平成9年3月末をもって終了することと
    し、残された課題については、その解決のため、工夫を一般対策に加えつつ対応すると
    いう基本姿勢にたつべきである」と述べている。こうした事実をぬきにして「残されて
    いる」ことのみを強調すればあやまった認識になるのは当然である。 
    ところが、どの教科書も、「同対審答申」が出され、「特別措置法」が制定され、「事業」が
    おこなわれてきたが、「差別は根強く残っている」というものである。「まだ差別は残っ
    ています」(大書)、「就職や結婚における差別は根強く残っている」(東書)、「部落出身
    であることがわかると、婚約や採用を取り消すことなど今でもある」(教出)、「被差別
    部落出身であることを理由に、結婚の自由や職業を選ぶ自由などがしばしばおかされ
    ている」(帝国)。これらには「法」のもとでとりくまれてきた成果、変化の事実を記述し
    ていない。現実を客観的にとらえ、解消の事実と残されている事実を正しく記述すべ
    きである。
    第五は、基本的人権や民族問題などを差別問題に矮小化し、それぞれの問題の独自性
    を見失い、解決への道筋を誤らせている問題である。
    「今日の日本には、とくに、部落差別や民族差別、障害者差別や女性差別などの問題
    をどう解決するかが、社会全体の大きな課題である。」(日書)という記述は、どの教科
    書にもみられる。これらは、それぞれ独自の問題であり、「どう解決するか」はそれぞれ
    ことなる。これを差別だけでとらえているところに問題がある。また、日本書籍は「差
    別のみなもと」に「無知や偏見による差別、それにもとづく不当な慣習や制度などによ
    る差別は、今なお世界各地にある。貧しい人々、弱い立場の人々、障害や難病になやむ
    人々など、差別に苦しんでいる人々は多い。現代では、政治の民主化や無知や偏見の克
    服なと、差別をなくすための国際的な取り組みが進み、これに協力することが各国の
    責務とされている。」(同「公民的分野」P32)
    ここには国内的あるいは国際的な問題があげられているがすべてを「差別」でくくり、
    問題を羅列しただけであって、「なにがみなもと」かわからない。
     公民的分野での「基本的人権」の学習は、基本的人権を身につけさせるためにあるこ
    とを忘れてはならない。いうまでもなく基本的人権は最初に自由権的基本権が追求さ
    れ、資本主義の発展とともに労働者の運動を中心にして生存権をはじめとする社会権
    的基本権が確立されてきた。そして、今日では社会の発展と地域住民の権利意識の高
    まりによって新しい人権が確立されつつある。また、自由権的基本権は、個人の人格の
    自立を前提として、国家権力からの権利侵害を守ることに主眼がおかれ、発展してき
    たものであり、「平等権」は「自由権」の平等をもとめる運動によって確立してきたもの
    である。これらの権利獲得の歴史をふまえ、基本的人権を身につける学習をさせたい
    ものである。社会問題のあれこれをとりあげ、解決の課題を学習課題とすることには
    問題がある。
    最後に残されている問題の解決を子どもたちの課題とし、「ぼくたちの役目」とした
    り、「私たちの歪んだ心をなおしていかなければならない」としている問題である。現
    在「21世紀に差別をもちこさない」とし、成人の課題としてとりくみを進めている。
    残されている「差別意識」が問題であるとしても、それは子どもたちの「意識」ではない。
    現在子どもたち中にあらわれている「特別な意識」は「部落問題学習」によってつくら
    れたものであると言ってよい。それらを問題にするのであれば「部落問題学習」をやめ
    れば解決する。
    以上が、子どもたちの作文にあらわれた問題を教科書の記述との関係分析した問題
    点である。結論的に言えば、「同和対策としての部落問題学習」を行うとすれば内容.方
    法ともに「人権作文」にあらわれているようなものにならざるを得ないということで
    あり、それは歴史認識.社会認識を歪め、部落問題そのものに対するあやまった認識を
    抱かせるものになるということである。問題の解決は、こうした「部落問題学習」を終
    結させ、科学的な歴史認識.社会認識を育てる社会科の学習を創造する以外にない。
     
    2.「人権教育」をめぐる動き
     本年度にはいって「人権教育」の声が急速に高められている。私たちが人権教育(人
    権の教育)の主張をかかげたのは、「地域改善対策特別措置法」の期限ぎれを目前にし
    たときであった。それは部落問題の解決の現状と子どもたちの状況をふまえて、「21世
    紀の担い手を育てる」ために何をしなければならないかを展望してのものであった。
    その中心は民主的な人格を形成することとし、人権と民主主義の教育を提起した。
    ところが、1990年前後から解放教育は行きづまりを打破するために「人権教育」を言
    いはじめ、1991年3月、日教組が「人権教育指針」を打ち出した。これは、従来の解放教育
    を「人権教育」と言い換えたにすぎず、あいかわらず差別を「差別.被差別の人間関係」
    と捉え、「社会的立場の自覚」と「反省と連帯」を強制するものであった。しかし、部落問
    題の現状と子どもたちの生活とかけはなれたものであり、親の教育要求にたったもの
    でなかったから、矛盾が拡大していた。このことについて、森実氏は、つぎのように言
    っている
    「従来の同和教育や解放教育の中心概念である「解放の自覚」や「社会的立場の自
    覚」ということばは、1970年ごろまでの実践を土台として作られてきました。「なぜこ
    んな家に(地域)に生まれたんだろう」と自分の生まれを否定的に捉えていた子どもが、
    反差別という視点に立って自分の生いたちを捉え直して運動に立ち上がる。このよう
    な、悔しさをばねにした変革を端的に表したのが解放の自覚や社会的立場の自覚とい
    ったことばです。では、今の部落の子どもたちはどうなるのでしょうか。以前のような
    悔しさや被差別の実感を強くもった子どもたちが多数を占めているでしょうか、「最
    近の部落の子どもには根性がない」とか、「学力だけでなく、体力も弱い」などと先輩の
    活動家から指摘されることがありますが、これなどは、「解放の自覚」ということばが
    表現していた生活実態を前提にして、それと同じ視点で今の子どもを指摘しようとし、
    ひいては評価しようとする言い方なのではないでしょうか」(森実「「教室の人権教
    育」何が実践課題か」(明治図書)。
     ここでは部落の子どもたちの中に「悔しさや被差別の実感」がなくなっているので
    あるから、「差別の現実」にたって「解放の自覚」を育てる実践はなりたたないと言って
    いる。ところが「解放教育」の基本的主張である「自己の社会的立場を自覚させ、差別と
    闘うこと」「社会的立場の自覚を高めることは、すべてに優先する」ということを堅持
    しての「人権教育」であるから、方法論の見直しに終始せざるを得なかった。当然、子ど
    もはもちろんのこと親・地域からも厳しく批判され、実践的に行き詰まることになる。
    こうした時に出されたのが「人権教育に関する国連10年」であった。かれらにとっ
    て渡りに船であり、これにすべてを託することになったと言ってよかろう。
     「国連の呼びかけは同和教育がさらに豊かに発展しまた広範に広がっていく可能性
    をもたらしていると同時に、日本の優れた人権教育である同和教育を世界に発信する
    絶好の機会を与えるくれるものである。」(平沢安政.森実監修「わたし出会い発見」大
    阪府同教)
    「国連が提示した「人権教育」の定義を見ると、わたしたちが今日まで積み重ね、ある
    いはめざしてきた同和教育の理念や実践のスタイルと多くの部分で重なることに気
    づきます。もっとも組織的・体系的に数々の成果を上げてきた同和教育が、国内の人権
    教育の柱として、その位置をしめていることが確認できます。一方、「十年」の理念や、
    世界各地ですすめられている人権教育は、従来の実践がカバ-できなかった分野や、
    十分に克服できなかった課題、さらには弱点ともいえる部分について、かなり明確な
    示唆を与えてくれます。」(奈良県・大阪府・大阪市同教編「人権の授業をつくる」解放出
    版社)
    森実氏は「いま人権教育が変わる」部落解放研究所.1995.12.)で、「同和教育が世界
    の人権教育を取り入れる」理由を二つあげている。①「今日、同和教育は、すべての子ど
    もたちに自己実現を支援するものとして、グロ-バルな視点をもって、人権・差別・環境
    ・平和などの社会の問題を考え、自分自身の生き方として行動して行ける子ども育て
    る方向をめざして大きく動きだそうとしている」が、これが「世界の人権教育で強調さ
    れていることとまったく合致している」こと、②「世界の人権教育が整理しているよう
    に、知識(認識)・態度(姿勢)・技能(スキル)をト-タルにとらえ伸ばすことや、参加体験
    型の多様な手法を取り入れることが、同和教育の弱点を補う意味で有益だからであ
    る」。(「発見」)
     これが、「解放教育」のいう「人権教育」への考えである。
    これに対して政府.行政レベルから推進される「人権教育」は、「地対協の「意見具
    申」(1996.5.)をうけて成立した、「「人権教育のための国連10年」に関する国内行動計
    画(中間まとめ)」(96.12.6.)と「人権擁護施策推進法」(96.12.17.)によって本格化
    する。「意見具申」の提起は、次のとおりである。
    「教育及び啓発の推進」 についての「①基本的な考え方」 は「同和問題に関する国民
    の差別意識は解消に向けて進んでいるものの依然として根深く存在しており、その解
    消に向けた教育及び啓発は引き続き積極的に推進していかなければならない。」。「今
    後、差別意識の解消を図るに当たっては、すべての人の基本的人権を尊重していくた
    めの人権教育、人権啓発として発展的に再構築すべきと考えられる。その中で、同和問
    題を人権問題の重要な柱として捉え、この問題に固有の経緯等を十分認識しつつ、国
    際的な潮流とその取り組みを踏まえて積極的に推進すべきである。」
    そして、「②実施体制の整備と内容の創意工夫」では「人権教育のための国連10
    年」に係る施策の積極的な推進等による差別意識の解消に向けた教育及び啓発の総合
    的かつ効果的な推進という観点を踏まえる必要がある。」、「教育及び啓発の内容の面
    でも、様々な課題に対する国際的な人権教育・啓発の成果、経験等を踏まえ、公正で広
    く国民の共感を得られるような更なる創意工夫を凝らし、家庭、地域社会、学校などの
    日常生活の中で実践的に人権意識を培っていくことが必要である。」としている。
    それでは「人権問題」についての「国際的な潮流」、「国際的な人権教育.啓発の成果」
    とはどういうものなのか。次に「国連10年」決議の要旨をあげる。
    「人権教育は、次の諸点を志向するような知識技能の伝達と態度の育成を通じて、
    人権の普遍的文化を形成することを目的とする教育、訓練、普及、情報の努力であ
    る定義できる」。「①人権と基本的自由の尊重の強化、②人格の全面発達と人間の尊
    厳、③全ての諸国、先住民、人種、国民、エスニック、宗教、言語グル-プの間の
    理解、寛容、男女平等、友好の促進、④すべての人々が自由な社会に実質的に参加
    できること、⑤平和維持のための国連の諸活動の促進」(八木英二・仮訳「国連人
    権教育の10年(抄)」(『部落問題研究』135号) 「決議」は国際的に合意でき
    る「人権教育」についての基本的.一般的な考えを確認したものであって、「条約」のよ
    うな拘束力.強制力をもつものではなく、「行動」するかどうかは、それぞれの国の判断
    にまかされている。それが日本では、ことのほか重視され、「行動計画」まで策定してい
    るのである。何故なのか。「意見具申」にあるとおり、「同和問題」への対応、「差別意識」
    解消のための「教育.啓発」のとりくみを合理化以外の何物でもない。
    政府が考える「人権教育」は、次のようになる。
    ☆「国は、すべての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっと
    り、人権尊重の理念に関する国民相互の理解を深めるための教育及び啓発に関する
    施策並びに人権が侵害された場合における被害者の救済に関する施策を推進する責
    務を有する」(「人権擁護施策推進法」第二条国の責務)
     ☆「学校教育においては、日本国憲法及び教育基本法の精神にのっとり、人権教育
    が推進されている。初等中等教育においては、児童生徒の人権尊重の意識を高める
    教育を一層充実する。また、大学教育においては、それまでの教育の性かを確実な
    ものとし、人権意識を更に高揚させるよう配慮する。」(「『国連10年』に関する
    国内行動計画(中間まとめ)」「(1)学校教育における人権教育の推進)」
     これに続く(2)社会教育、(3)企業その他の一般社会、(4)特定職業従事者に対する
    「人権教育」も、「人権意識を高める教育」となっている。これらは「国連10年」決議
    の主旨とは異なっており、「人権教育」が「人権尊重の理念」「人権尊重の意識」を高め
    る教育であるといっている。そして、「推進法」の「提案理由」や衆.参議院の「付帯決
    議」をふまえるならなば、実際は「同和問題」「差別意識」に対する教育・啓発となる危
    険は十分にある。現にすすめられている上からの同和教育・同和啓発が「国民相互」の
    「人権意識」「差別意識」の問題として、それぞれの自覚を促す図式で推進されており、
    それを「人権教育・人権啓発」と言い換えたにすぎないことになるのではないか。すで
    に、文部省は平成9年度予算要求で「教育総合推進地域等」として、208,589千円(新
    規)を計上したが、「要求要旨」では「第15期中教審第一次答申」の「今後重視すべき教育
    内容として人権を尊重する心を育むこと」と「同和問題の早期解決に向けた今後の方
    策」(96.7.閣議決定)をあげ、「従来の地域改善対策としての教育の振興を図る教育推
    進地域及び研究指定校を、教育総合推進地域及び人権教育研究指定校に再構成すると
    ともに、その成果を人権教育資料として作成.配布する」としている。「同和教育」を
    「人権教育」と言い換えたにすぎない。   
    「解放教育」が「人権教育」と言い、政府も「人権教育」と言う。そしていずれも「差別意
    識」の厳しいことを根拠にし、「国連10年」の決議をよりどころにして「人権教育」を推
    進しようとしている。しかも、従来のとりくみの行きづまりを打破するために「参加型
    人権学習」を取り入れているのである。このことについて、両者はそれぞれ次のように
    言っている。
    ☆「人のいたみがわかり、一切の差別を許さない人権・反差別の態度を育てるために
    は、その前提として、人間の尊厳についての認識や、自尊感情(自分らしさ)の獲得、人
    間関係の基礎としてのコミュニケ-ションづくりが大切である」。「人権の基礎にあた
    る部分」、「人権の土壌を耕す」ものとして、「楽しく主体的に参加する」「体験的参加型
    の手法」がとりいれた。(「発見」)
    ☆「我が国固有の人権問題である同和問題をはじめ、様々な分野における国民の差
    別意識は、各方面の教育・啓発活動の努力にもかかわらず依然として存在している状
    況が見受けられます。このように差別意識を解消するてめの教育・啓発活動の在り方
    については、これまで講義形式による受け身型の啓発活動が中心であったことから、
    マンネリ化しているとの指摘がされているところであります。このような状況を打破
    するために、近年、関係者において、参加者自らの知識や体験をもって積極的に関
    わることのできる、ワ-クショップ(体験的参加型研修)への関心が高まり、各地
    で新たな試みが始まっています。このため、総務庁では、ワ-クショップで学び考
    える手法を中心に、楽しく、より主体的に人権について考え、行動するためのワ-
    クショップ用ガイドブックを作ってい成しました。」(財団法人人権教育啓発センタ
    -(旧地域改善啓発センタ-)「ワ-クショップ-「気づき」から「行動」へ-」)
    いよいよ上からの「人権教育」のはじまりである。わたしたちは、あらためて部落
    問題の現状を科学的につかみ、子どもたちの現状にたって人権教育を考えなければな
    らない。そして、上からすすめられる「人権教育」と「解放教育」がすすめる「人権教育」
    を実践的に批判しなければならないと考える。
    3.子どもたちの現状と人権教育
     今、子どもたちの学校生活は深刻であり、教師も子どもたちの「崩れ」や「荒
    れ」の中で呻吟している。「うるせぇ」「むかつくなぁ」「くそババァ」等が、最近の子ど
    もたちの親や教師にたいして頻発する言葉である。「夜はねむれない」「つかれやす
    い」「朝、食欲がない」「何となく大声を出したい」「何でもないのにイライラす
    る」と言う子どもたち。そうした中で、いじめや登校拒否が年々増加し、「生きる
    力」をうしなって自殺が相次いで発生している。1955年度「いじめ」発生件数は60,0
    96件となり「過去最高」「最悪」と報ぜられ、文部省の「本格的ないじめ対策」にもかかわ
    らず歯止めはかからず、今や「学校は、教職員と子どもが教え、教えられ、学び、
    学び合うなかで、お互いがより豊かな人間形成をしていく場」ではなくなりつつあ
    ると言ってよい状態になっている。
     子どもたちの願いは、「わかりたい」、「仲間とともに成長したい」「自分の夢
    を実現したい」である。その願いと夢の実現を阻み、「努力」から「あきらめ」へ
    の生活へ追い込んでいるのが学習指導要領による能力主義の教育と管理主義の教育
    であり、現在の高校入試制度である。
    1990年度から「新学習指導要領」が実施されることになり、「新学力観」にもとづく教
    育がすすめられることになった。それにともなって「個性の重視」、「選択幅の拡大」、
    「多様な進路選択」、「校外活動.ボランテイア活動等の評価」「内申書重視」「推薦入試拡
    大」がすすめられることになった。これらは、子どもたちの基本的な願いを受け止めた
    ものだろうか。否である。子どもたちはますます「閉塞状態」においこめられ、「最悪の
    事態」が拡大しているのである。
     こうした事態に対して、政府によって「教育改革」がすすめられ、「心の教育」
    が強調されている。橋本首相の「教育改革」についての基本的考えは、次のとおり
    である。
     「国民一人一人が充実感をもって暮らしていくためには、学歴が一生を左右しか
    ねない現状を改め、一人一人のが自分の適性にもとづいて能力を伸ばし、努力し、
    生涯にわたって活躍できる社会を建設する必要があります。また、国際化・情報化
    が進展する中で、国際社会に通用する人材を育成することはますます重要でありま
    す。かかる認識に立ち、平等性、均質性を重視した学校教育を個々人の多様な能力
    の開発と、創造性、チャレンジ精神を重視した生涯学習の視点に立った教育に転換
    する教育改革を進めてまいります。この国の将来を担う次の世代が、みずからの夢
    や目標のために努力すると同時に、国や地域の将来に高い志と国際的視野をもって
    積極的にかかわっていく世代であってほしいと願っております。こうした人材を育
    てるためには、答えが決められている問題を解く知識だけでなく、みずから問題意
    識をもって自分なりの答えを出し、その実現に努力できる知識、見識、良識をバラ
    ンスよく育てる教育が必要であり、また、子どもたちが多様な夢や目標を目指して
    努力するためには、教育の分野においても選択の幅を拡げることが必要です。この
    ような認識に立って、学校週五日制に移行するための準備を進めながら、中高一貫教
    育など学校制度や教育課程の見直しにより、子どもたちのもつ可能性を十分に引き
    出し、生きる力をはぐくむことのできる教育を実現したいと考えます。いじめや非
    行の問題については、家庭、学校、地域社会が一体となってとりくむことができる
    よう支援を強化いたします。」(第140国会施政演説)
     ここにあげられている「選択幅の拡大」「教育課程の見直し」「中高一貫教育」
    は、第15次中教審の第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方につ
    いて」をふまえたものであり、それはまた財界の「21世紀戦略」のための人づくり
    政策にそうものである。そのことを紹介しよう。
    1985年3月、日本経済調査協議会は「21世紀に向けての教育を考える」を発
    表しているが、そこには「人間は創造的人間としての天才、能才、異才と、圧倒的
    多数のの凡才、非才の五つのタイプにわけられるが、そのうち天才は学校教育では
    育たない、学校教育の役割は天才などの創造的人間を開発することだ。その開発の
    システムこそ、競争の原理だ」とのべられている。子どもたちを競争させ、ふるい
    わけるのが学校の役割だというのである。また、1995年5月、日本経営者団体
    連盟は「新時代の日本的経営」をだし「先行き不透明な」21世紀を生き抜くため
    には従来の「日本的雇用慣行」を解体して、「能力主義的なもの」へ移行させ、
    「必要なときに必要な人材を確保」できる「雇用システム」を確立するとしいる。
    そして労働力を「長期蓄積能力活用型」、「高度専門能力活用型」、「雇用柔軟
    型」の3グル-プにわけて確保し、必要に応じ随時に雇用するというものである。
    この「雇用システム」と理念に即応する人材を確保するための学校が考えられてい
    る。ここから、子どもたちをはやくから能力別に選別し、それぞれの能力に応じる
    ためとして「選択幅を拡大」し、エリ-トのための「中高一貫教育」「飛び級制」
    が考えられいるのである。 一目瞭然である。「競争原理」にたって少数の「中高一
    貫」の学校をつくり、「優れた才能を有する者」を大学へ早期に入学させることは、
    学校間格差を拡大するものであり、ますます子どもたちを競争の淵に落としこむ何
    ものでもない。子どものたちの「否定的状況」をとらえて、「豊かな人間性の育
    成」を叫び、「望ましい社会性や倫理観の育成」としての「心の教育」を言うのでは
    なく、「競争原理」にたつ教育を払拭し、過度の受験競争をなくすることこそが問
    題解決の基本であろう。このことがあって、はじめていじめや登校拒否・不登校の
    問題、高校中途退学などの深刻な問題も解決するこができる。「教育改革」はそれ
    に逆行するもであり、より問題を深刻にするだけであるといわなければならない。
     今年は、教育基本法が制定されて50年目にあたる。私たちは、あらためて教育
    基本法にしめされる原則を確認しなければならないと思う。
     「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、心理と
    正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心
    身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(第一条)
     「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育をうける機会を与えられなけ
    ればならないものであって、教育上差別されない。」(第三条)
     「教育行政は、不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任を負
    って行われるべきものである。」(第10条)
     私たちのめざす教育は、日本国憲法と教育基本法の原則にしたがい、すべての子
    どもたちを主権者に育てることにある。そのための実践的課題の一つは、子どもた
    ちの願いを深くとらえ、子どもたちの人権を守り、人権を保障することであり、中
    心課題は、すべての子どもたちの発達する権利、学習する権利を保障する教育にある。
    そのためにしなければならないことは、子どもたちの基本的な願いにたった教育を
    すすめることである。すべての子どもたちの願は「わかりたい」「賢くなりたい」「みん
    なと一緒に楽しい学校生活をおくりたい」であり、これらは学んで発達する権利、人
    間として成長する権利の主張である。子どもたちの今日の状況は、この権利が土台か
    ら侵害されていることによって引き起こされているものである。したがって、私た
    ちがしなければならないことはこの権利侵害を取りのぞき、権利を保障するとりく
    みである。とりわけ大事にされなければならないのは、すべての子どもたちの人間
    として成長.発達を保障するとりくみであり、学力を保障するとりくみである。
     「どの子も、わかりやすく教えてもらい、法則や原理を理解し、ものごとをすじ
    みちだてて考え、生きて働く学力を身につけていく「学習権」をもっている。そし
    て仲間とともに「わかった」という学習の喜びを実感する権利をもっている。「で
    きないのも個性」という「新学力観」と「多様な進路を保障する」という入試制度
    はすべての子どもの学力を保障するものではない。私たちは、こうした学力観や制
    度を厳しく批判しながら、すべての子どもの人間的成長と発達、学力を保障する実
    践を重視していきたいと考える。
     子どもたちの現状が提起する人権教育の今一つの課題は、自主的な活動を保障し
    ながら、人権についての確かな認識を育てなければならないということである。子ど
    もたちの生活から異年齢集団の遊びがなくなり、学校では自由な学級活動や自主的
    な活動の場が少なくされ、子どもたち同志の人間的交わりや結びつきをより困難にし、
    否定的状況に拍車をかけることになっている。その上に「人権教育」として、「人権意
    識」を高め、互いに相手の立場にたって「人権を尊重」しようという教育がすすめら
    れようとしているのである。これらは子どもたちを人権主体に育てるものでなく、人
    権を「意識」の中にとじこめ、自分自身の心を見つめ、態度をあらためることを強
    制する以外の何物でもない。すでに「人間の心」や「人間の弱さ」をみつめる教育が
    実践されているが、これが「心の教育」としてさらに強制されていくことになるで
    あろう。
     私たちは、同授研(「どの子も伸びる研究会」の旧称「同和教育における授業と
    教材研究会」)以来もっとも大事にしてきたのは、確かな人権認識を育てるとりくみ
    である。それは生活認識を基礎に、豊かな人間認識とたしかな社会認識を形成すると
    りくみを通して形成されるものであ。こうした人権認識を育てるとりくみと子どもた
    ちの主体的な活動(自主活動)によって人権主体(主権者として成長する力をもった子
    どもたち)が育てられていくと考える。
     現在、政府によってすすめられようとしている「教育改革」と「人権教育」は本当の人
    権教育なのかどうか。憲法と教育基本法に照らせば、自明のことであろう。 私た
    ちは、こうした動きに立ち向かうとともに子どもたちの人権を守り、人権を保障す
    るる教育、人権主体を育てる教育を創造していかなければならないと考える。