はじめての同和教育

私が小学校で体験した同和教育は、小学5年生のときの部落民宣言から始められたと記憶している。それ以前にも、教師から部落差別についての話は出ることはあったが、そのために授業の時間をさくことはなかった。
最初の同和教育では、まず教師から水色の紙製のファイルを受け取った。続いて、何枚かのプリントが配られた。そして、ファイルの表紙と背表紙に「同和教育」と書くように言われた。私はこのとき始めて同和教育という言葉を知った。普段とは全く違う授業の雰囲気に、子供心に何か陰謀めいたものを感じたものだった。
プリントには、「人間に光あれ!」というような難しい文章や、「ふるさとをかくすことを…」といった詩や、悩んで自殺したとか、汚い長屋で苦労しているとか、そういった暗い話がたくさん書かれていた。そういった文章を、国語の時間のように順番で読ませられ、その度に感想を求められた。
私は、実のところ、こういう授業は嫌いではなかった。私は少し変わった子供で、戦時中の苦労話や、ワイドショーのような、ドロドロした話が好きだった。誤解を恐れずに不謹慎な言葉を使うならば、他人の不幸は蜜の味といったところか。
しかし、こんな私でも教師から感想を求められることは、だんだんと嫌になってきた。教師が言葉尻をとらえて怒るので、素直に感想を話すことができないのだ。例をあげると、「(部落の人は)かわいそう」という言葉は禁句だった。必ず「(差別をする人は)許せない」といわなければならなかった。
それでも、私は次第に慣れてきた。感想でも作文でも、何でもいいから差別は許せない、差別をなくさなければいけないという方向に話を持っていけば、無条件に教師はほめてくれるからだ。あとは、「差別される人がかわいそう」など、NGワードを除外してゆけばよい。こういったところは要領よくやったので、「将来が楽しみだ。」とまで言われたりもした。
一方、そういったことが要領よくできない子は悪い子だ。作文の苦手な子は、休憩時間の間もずっと机に向かっていて、放課後も居残りさせられていた。
私は教師からほめられてはいたが、人権になるとなぜかヒステリックになる教師に対して、次第に憎悪が芽生えるようになってゆく。


高校時代に書いたメモから構成しています。
「『人間に光あれ!』というような難しい文章」というのは、ご存知の通り水平社宣言のことです。「『ふるさとをかくすことを…』といった詩」は丸岡忠雄の「ふるさと」です。
ちなみに、この頃、少年ジャンプの「燃える!お兄さん」で用務員を侮辱するストーリーが問題となり、掲載号が回収されるという騒ぎがありました。本屋で買ったジャンプを郵送すればシャープペンシルか何かがもらえると話題になり、小学校の帰りにみんなで郵便局に行ったのを覚えています。

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